凡人・秀吉の極端すぎる努力のさき

どうして、こんな奴らが天下を獲れたのか!? 日本史上稀にみる見事な〝退却戦”、金ケ崎の戦い(1570年)。信長(37)→部下全員置き去りで逃亡。秀吉(34)→殿軍(しんがり)に抜擢も思考停止。光秀(55)→経歴不詳。家康(29)→カンケイないのに絶対絶命 !迷走の果て、奇跡の決断ーー。2017年秋、27時間テレビ(フジテレビ系)でドラマ化! 「僕の金ヶ崎」(脚本:バカリズム/主演:大杉蓮)原案。


「信長殿が今川義元本陣を攻めたときの話はきいておるか」

「だいたいは」

「その『だいたい』は、たぶん間違っておる」

 桶狭間の合戦は、信長による奇襲作戦だと思われがちだが、実情は違う。信長は清洲を出たときこそ単騎ででたが、熱田から桶狭間までのわずかな距離を、たっぷりいちにちかけて迂回した。

「そして自陣をととのえ、何も見えない東北の空をゆびさして断言したそうな。『あそこに今川義元の本陣がある。いくぞ』と」

 あとはよく知られている通り。今川義元の本陣は本当にそこにあり、義元が戦死して、今川は瓦解して今日にいたっている。

 信長には、凡人の見えないものがみえる。

「あと、もうひとつ、わかったな」

「とは?」

「信長殿が、浅井長政殿の朝倉調略を待っておられる」

「その根拠は?」

「信長殿は、だれも信じないが、信じるときは徹底的に信じる」

 孤独な男だ、と家康は信長についておもう。人との判断を、信じるか信じないかのふたつでしかみられない。ほとんどはその両方をもちあわせ、くみあわせて人間関係をつくってゆくものなのだが。

「徳川を信じておられるように、な」


五 木下秀吉


 永禄十三年(一五七〇・元亀元年)、四月十八日、右京外。

 今日も家康のもとに織田信長本陣から「待機せよ」との下命があった。先のわからない無為を将兵はもっとも嫌う。徳川二千騎とはいっても、騎馬武者が二千であって、農村から徴発してきた足軽たちはその何倍もいる。

 三河がそろそろ農繁期にかかるのも気になっている。織田はほとんどの足軽が志願兵で給与が出て、農期の繁閑は関係ないが、徳川はそこまで兵農分離は徹底していない。

 暇をもてあますとろくなことにならないのはわかっているので、家康は信長宛てに、

『足軽たちの軍事訓練をさせたいので、許可ねがいたい。訓練であって他意はない。必要ならば徳川から信長本陣に人質をあずけるがいかがか』

 と申し出たところ、信長側から徳川の重臣を何人か人質の指名があったので信長の本陣に身柄をあずけた。もちろん、この人質を織田が粗略に扱うことはぜったいにない。いわば非常勤外交官ともいうべき立場である。

 そんな具合で許可がおりたので、徳川本隊二千騎は洛外で訓練をはじめた—木下藤吉郎(秀吉)隊とともに。

 ところが。

「御屋形(家康)、なんですか、あれは」

 徳川・木下連合隊の指揮をしていた本多忠勝が、途中で家康の本陣にもどってきた。

「いかようにか、ならぬものですか」

「うーむ……」

 家康も、あきれかえって腕を組んだ。

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金ケ崎の四人 ー信長、秀吉、光秀、家康ー

鈴木輝一郎

戦うだけが、戦(いくさ)ではない。「逃げる」こともまた、戦なのだ。 日本史上稀にみる見事な〝退却戦”、金ケ崎の戦い(1570年)。 信長(37)部下全員置き去りで逃亡。 秀吉(34)殿軍(しんがり)に抜擢も思考停止。 ...もっと読む

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marekingu #スマートニュース 3年弱前 replyretweetfavorite