カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』。この世で一番切ない小説。

京大院生の書店スタッフが「正直、これ読んだら人生狂っちゃうよね」と思う名著を選んでみた。10作目は、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』。『人生を狂わす名著50』では最後に紹介している名著ですが、ノーベル文学賞受賞を記念して本日ご紹介します。今まで読んできた本の中で、ていうか世の中で出版されている本の中でいちばんの傑作だ、と信じて疑わない小説。今の時代、「善」とされない方向へ傾きます。

この世でいちばん切ない小説を読みたいあなたへ

『わたしを離さないで』カズオ・イシグロ
(土屋政雄訳・早川書房)初出2005 

とりあえず私が今この世界でいちばんの傑作だと思う小説です! 読んで!! 今の時代、「善」とされない方向へ傾きます。#海外文学 #21世紀の小説の中で最高傑作 #映画化もされた世界的ロングセラー #SF設定 #イギリス「タイム」誌のオールタイムベスト 100(1923〜2005年発表の作品が対象)に選出 #綾瀬はるか主演でドラマ化 #翻訳も素晴らしい #「いい小説」を読みたいときに


 紹介するのは、—今まで読んできた本の中で、ていうか世の中で出版されている本の中でいちばんの傑作だ、と私が信じて疑わない小説です。

ヘールシャムでの最後の数年間、十三歳から十六歳で巣立つときまでをお話ししましょう。わたしのヘールシャム時代の記憶は、最後の数年間とそれ以前という二つにはっきり分かれています。これまでは、「それ以前」のことをお話ししてきました。一年一年の区別も判然とせず、全体として黄金色の時が流れたという印象が残っています。当時のことを思うと、嫌なことも辛いこともひっくるまて心がほのぼのとしてきます。

田舎をあちこち移動していると、いまでもヘールシャムを思い起こさせるものを目にします。霧でかすむ野原の片隅を通り過ぎ、丘を下りながら遠くに大きな館の一部を望み、丘の中腹に立つポプラの木立を見上げて木の並び方にはっとする。そんなとき、「あっ、ここだ」と思います。「見つけた。ここがヘールシャムだ」と。でも、ありえない……。そう自分に言い聞かせて、またとりとめのない思いに戻り、運転をつづけます。

 私がまだ小さかった頃、「大人はどうしてあんなに長く、死なずにいられるのだろう?」と思ったことがある。
 ……子どもっつーのは時にオソロシイ生き物だ。今の私が10歳やそこらの女の子にこんなこと聞かれたら、「え、大丈夫? 何か悩みでもある?」と思いっきり心配してしまう。
 しかし特に当時の私に深刻な悩みがあるわけではなかった。親が死んで家なき子になっているわけでも、強烈なイジメにあっているわけでもなかった。
 ただ10年も人生を送っていれば、「ああ生きるのってけっこう面倒だぞ」という予感を抱くようになる。
 そこに人がいればなぜかこちらを嫌ってくる人もいるし、嫌な教科にもまだまだ付き合わなくてはならない。そのうえ大人になったら毎日へとへとに疲れながら仕事をしなくてはならないらしい。
 うわー、人生、けっこうめんどくさそうだぞ! 
 幼い私は強烈にそう感じていた(めんどくさいだけで「じゃあ死んだら楽なのでは」とか考えるあたり、私のめんどくさがりっぷりがわかるエピソードで恐縮なのですが……)。

 しかし大人は、私の何倍もの時間を「死なずに」過ごしている。
 そりゃ死ぬのは絶対痛いし大変だ。けど、この先今よりずっとずっと大変になるであろう人生を何十年も過ごすよりも、えいやっとがんばって死んでしまった方がよっぽど楽だろう。
 なのに、なんで大人は死なずに、生き続けているんだろう?

 そんなことを考えているとき、10歳の私は、ふと「じゃあなんで私は今死んでいないんだろう?」と思った。
 ……まぁ、痛いのはイヤだからだな。まずそう思った。死ぬのは痛そうだしけっこう大変そうだ。
 じゃあ、痛くなく死ねるよって言われたら、私は今死ぬんだろうか? そう考えたとき、思った。「うーん、まだ死ねないなぁ」。
 なぜか。それは、「だってまだ『夢水清志郎シリーズ』で読んでない巻あるし、来月号の『りぼん』も読みたいし、図書室の読みたい本読み切ってないもんな。楽しみな本や漫画の新刊を読んでないうちに死にたくないなぁ」。
 うん、私はまだ死ねないぞ。
 そう思ってさよならの挨拶をして軽やかにランドセルを背負い直して、私はふと気がついた。
「あ、そうか。大人も、死ねない理由がいっぱいあるから死んでないのか」。
 たとえば家族を持って子どもができて、やっぱり子どもを残して死にたくはないと思うものだろう。あるいは仕事でえらくなって、せっかくえらくなったのにまだ何もやってないと思ったらまだ死ねないだろう。それから楽しみな本や漫画も、大人になったらもっと増えているんだろう。
 そっか、生きるってつまりは死ねない理由が増えることなんだな!

 そうかー、なるほどー、と自分で感動しながら歩いたあの帰り道を、私は今でも鮮やかに思い出せる。
 もちろん今となってはツッコミどころがたくさんある。おいおいそもそも命の重さとか親への感謝とかさ、と今の私は当時の私の肩を掴んで問い質したい。
 しかしいまだに私は「うげっしにたい……」と思うようなことがあっても、「や、私にはまだ読んでない本が山ほどあるし、生きる!」と思って気を取り直す。
 人生を続けるのは、死ねない理由—つまりは大好きなものや愛着を持つものを増やすことであって、だったら生きるってけっこう楽しいことだよな、と私はいつも思っていた。
 ……この本を読むまでは。

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コメント

MiuraYoh #utamaru はちゃめちゃに絶賛してる。(途中から有料) 2ヶ月前 replyretweetfavorite

m3_myk ただいま公開中!! カズオ・イシグロ特集です❤️ 📚 https://t.co/SGqxNX8GZE 📚「 カズオ・イシグロ全作品」解説。あなたにぴったりの作品は? https://t.co/0a4Eqniiif 2年弱前 replyretweetfavorite

norijenu いいレビュー。読みたくなった。 2年弱前 replyretweetfavorite

tomshirai 死にたくない、離さないで、なんて叫び声に人生を預けたくなるときもある。 2年弱前 replyretweetfavorite