浅井長政は、家臣団の意見調整でも抜群の力量をみせた。家臣団によって追放された実父・久政を、権限を剝奪(はくだつ)したまま小谷城(おだにじょう)に呼び戻したのだ。これにより、久政を支持していた家臣たちも長政の味方についた。
この時点で、浅井長政の住む北近江・小谷城には、旧国主・浅井久政と、旧主君・京極高吉(きょうごくたかよし)が、それぞれ隠居場を与えられて住んでいる。これにより浅井長政は、国内的には家臣団の浅井久政派と本来の主君・京極佐々木派をとりこんでいる。対外的には織田信長の妹・市(いち)を正室に迎え、そのうえ、旧主君・京極佐々木氏の当主・京極高次(たかつぐ)の身柄を人質として織田信長にさしだした。
浅井長政の代になって、朝倉義景との係累(けいるい)だけが、うすい。
「浅井長政殿なら——」
家康は、秀吉に言った。
「政敵を潰すだけではなく、敬して遠ざける方策を熟知しておられる」
「御意」
「朝倉義景の面目をたもって隠居させる、落としどころをさぐっている、といったところか」
「おそらくは」
「すごいものだ」
家康は、率直に浅井長政の力量をみとめた。
長政はこのとき二十六歳。家康よりも三歳若いが、その声望と人望と信頼は、織田信長の連盟のなかでは、すでに絶大である。
「たしかに、敵と血を流すよりも、寛大に受け入れてゆるすほうが得策だ」
これは、同席している徳川の重臣向けのことば。徳川家中は織田信長ほど寛大ではない。信長は信長の基準で能力がありさえすれば、どんな出自だろうと重用する。家康の判断で能力最優先で登用すると、三河の家臣団はまた分裂する。徳川では制圧した今川の遺臣の登用は、織田ほどには進んでいない。
「ですな」
「徳川も、浅井をみならうようにせねばならぬな」
これには、秀吉はこたえなかった。こたえるような分際ではない。
ただ、このひとこともまた、その後重大な決断をひきおこすのを家康は知らない。
四 織田信長
永禄十三年(一五七〇・元亀元年)、四月十七日、早朝。
今日も夜明け前に家康本陣に織田信長本陣から、出陣待機の伝令がきた。まだ帰れず、いつ帰れるのか見当もつかない。
とりあえず洛中で陣を張っている他の諸将が朝餉の火をくべるのをたしかめて食事の用意だけはさせた。
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