三 浅井長政
永禄十三年(一五七〇・元亀元年)、四月十六日、早朝。
昨日につづき、日ののぼるまえから信長本陣より家康のもとに伝令。
「諸将は引き続き在陣せよ。下命があるまで出陣待機」
それだけの内容。昨日とおなじ。いつまで待機とか、どこに出陣とか、いっさい知らされない。出兵先が不明では鉄砲隊の火薬の調合やら弾丸の鋳造(ちゅうぞう)をどこまでやっていいのか見当がつかないし、足軽(あしがる)たちの訓練もどの程度やればいいのか見当がつかない。
みっちり訓練させて休憩をとらせたとたんに出陣の触れがまわったりしては目もあてられない。
織田信長の秘密主義は徹底している。超のつく多忙のはずなのに、ある日突然、不意に三河岡崎の家康のもとを単身でおとずれ、家康を狼狽させることも一再ならずある。
信長がこうした予測できない行動をとる理由は、家康にはわかる。
ひとつは暗殺防止。どこで何をするのかわからなければ、待ち伏せはできない。
もうひとつは情報管理。信長がいつどこで誰と会ったかだけで、次の天下の情勢が変化する。不意に隠密(おんみつ)に会えば、相手の口の軽さもわかるし、どの程度信頼できるかの判断もつく。
織田信長は、若いころの奇行が災いしてか、織田の家督を相続してしばらくの間、家臣たちの謀反や離反に難儀した。家臣団の扱いに手を焼いたのは家康と似たようなものである。
もっとも、信長は生母に裏切られて同母弟を殺した。家康は幸い、父母や兄弟を手にかけることだけはせずに済んでいる。
いずれにせよ。
「兵はながきを疎んずる」とは孫子も説いている。人間は明日を思いわずらう生き物だ。明日の予定がわからないのが、もっとも不安を呼ぶ。
一昨日、信長から在洛を要請されたとき、家康はすぐに秀吉はもちろん、佐久間信盛(さくまのぶもり)や丹羽長秀(にわながひで)ら旧知の織田重臣に使いをやって対応についての教えを乞うた。
全員が口をそろえて言うには、
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