「ずいぶんと将兵が集まっておるな」
上京の城壁をこえたところで、家康はひでよしとともに馬に乗った。
「尾張・美濃・伊勢・畿内諸将をあわせて、三万余騎が洛中(らくちゅう)に陣を張っておりまする」
家康も、信長からの要請で二千騎をつれて上洛(じょうらく)している。
洛中といっても、京都が平安京のにぎわいを戻すのは秀吉が日本全土を掌握してからのことで、この当時はまだ応仁の乱以降の戦乱で洛中のほとんどが空地となっている。
そんな荒れた地に、みわたすかぎり甲冑に身をかためた武将たちが足軽とともに待機している姿は壮観であった。
「これほど集めても祝言能(しゅうげんのう)を見せられぬ者がほとんどだというのに、なぜ信長殿は上洛させようとなさるのだろう」
「拙者にはなんとも」
「だわな」
破格の出世をした、とはいっても、秀吉にも武功らしい武功はない。秀吉の事務処理能力と交渉能力の高さは三河にも届いている。信長は北伊勢・神戸氏、南伊勢・北畠氏を、ともに力攻めしたものの勝利できず、秀吉の和睦交渉によって伊勢は織田に従った。
だが、いかに能吏(のうり)でも時代は戦国である。武功を立てなければ評価はされない。もっとも、秀吉は草履とりの雑人からはじまったのだから、ここまで出世するだけでも十分に常識をはずれた昇進ではあるが。こんな抜擢を三河でおこなえば、家康のほうが鼎(かなえ)の軽重を問われてしまうような、思い切った人事なのだ。
「それにしても、京は荒れておるなあ」
「かなり手入れしておりまするが、なかなかおいつきませぬ」
「二度目の上洛だが、岐阜のほうが華やかなような」
応仁の乱以降、あいつぐ焼き討ちや夜盗などで、京都は平安貴族のみやびやかな時代のおもかげはまったくなくなっていた。
上京と下京がそれぞれ独立した城壁(築地)で守られ、大通りが両者をつないでいる。かつて栄華をほこったであろうそれ以外の市街地は、あるものは焼けたまま廃墟として放置され、またあるものは撤去されて麦が植えられていた。
家康が信長とともに初めて上洛したとき、京都のさびれぶりに愕然とした記憶がある。
戦国武将は、京都にいきたがる。現実に上洛できるかどうかは別問題だが、やはり天子のおわす場所は別格といった意識はある。京都はあこがれの地なのだ。
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