家康が八歳のとき、三河岡崎城で家康の実父、松平広忠が家臣によって暗殺された。今川義元はその騒乱の収拾のために三河岡崎城に乗り込んだ。その勢いで尾張安祥城(あんじょうじょう)を攻め、城主織田信広の身柄を略取した。織田信広は、織田信長の異母兄にあたる。
ここで今川義元は織田信広と家康との人質交換を織田に申し入れ、家康の身柄はもどされた——今川に。
三河の国主・家康がまだ幼少なので三河岡崎には今川から城代(じょうだい)が派遣され、家康自身は駿府に送られて今川義元の人質となった。
家康は、駿府では「ふつうの人質生活」を送った。丁重にあつかわれ、将来も嘱望された。ただし三河の家臣団とは接点をもたされなかった。
十九歳のときに三河岡崎城にもどり、今川義元の尾張出張の先陣を命ぜられた。家康が尾張方の大高城(おおたかじょう)を攻略している最中、事故のような不運で今川義元は桶狭間(おけはざま)で戦死した。
家康はそのまま駿府に戻らず、三河岡崎城にとどまった。三河家臣団は家康のことをほとんど知らず、家康もまた、物心ついてからの異国での人質生活で家臣団の顔も名前もほとんど知らなかった。
しかも、主君として尊敬されるために不可欠な「武功」らしい武功はなく、そのうえ、家康は短軀(たんく)で後年の肥満体からは想像もつかないほどがりがりに痩せていた。見た目が小柄で、実に貧相だったのだ。
こうしたことごとがかさなって、家康の家臣団からの人望は、信長とは別の意味で絶望的に低かった。
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