秀吉の、これは噓。何度も秀吉にしている話だ。家康の家臣団にしつこく言い聞かせるための方策である。
「信長殿の父御の織田信秀殿のとき、三河岡崎城主のわが実父、松平広忠が尾張に攻め潰されそうになってな。今川義元殿に助けを求めたところ、今川はわしを人質によこせと言ってきた」
「まあ、そこまでは当たり前ですな」
家臣や盟約を結んだ相手から、忠誠のかわりとして子息を人質にして撫育するのは、戦国時代では日常的におこなわれている。
この場合「人質」とはいうものの、粗略にあつかえばたちまち家臣から離反される。家臣からあずかった子息は、主君のもとで丁重に行儀見習いや学問をまなばせられる。家臣団にとっては子息の教育の、主君にとっては若い人材発掘の機会でもあったのだ。
しかし、家康の場合は、ちがった。
「そこでわが父は、わしと近習何人かを今川のところに預けることにした。そのとき、父上の重臣のひとりが『陸路はなにがおこるかわからないので、舟で送りましょう』と進言して、わしは舟で岡崎を出た。ところがこの重臣が父上を裏切った」
「ほう」
「船を駿府にゆかせず尾張熱田へと誘拐し、わしを今川ではなく織田信秀殿にわたしたのだ」
「それでどうなったのですか」
「織田信秀殿は『子息は織田であずかった。息子の命が惜しければ、三河岡崎は今川ではなく織田につけ』と、わが父上に言った。そうしたら父上は『その人質は本来、今川殿にあずけるはずの者を奪取したのであって、織田にいるのはわが本意にあらず。愚息の命は信秀にまかせる。煮るなり焼くなり好きにせよ』とこたえた」
「つまりそのとき、徳川殿は『死んでしまってもかまわない人質』だったわけですか」