イラスト:堀越ジェシーありさ
走ろうと思ってもうまく走れない。まるで下半身がアスファルトに呑み込まれているようだ。
街灯が塀のある道を照らしている。それ以外の灯りは何も見えない。自分がどうしてこんなところにいるのか、経緯さえ思い出せない。
ああそうだ。そこで気がつく。
これは夢だ。しかも、前にも見たことのある夢だ。
夢だとわかった瞬間、体は解き放たれたように思い通りになった。
走れ!
次に何が起こるかはわかっている。同じことを何度か経験しているからだ。
目の前の交差点に灰色のトラックが飛び込んでくる。その手前にぼんやり、白い人影が揺れた。自由に動かせるはずの体は、まだ鈍い感覚に包み込まれている。
間に合わない!
必死に手を伸ばした。
*
ぶぶぶぶ、と頭の横で携帯が振動を始めたのと同時に夢は終わった。カーテンの隙間から光が漏れている。
健人は眠い目をこすり、携帯の画面を覗いた。「葵」という名前の下に緑色と赤色の丸が表示されている。働かない頭で少しの間迷ってから、緑の丸を押して携帯を耳に当てた。
「おはよー。ちゃんと起きてた?」
朝から元気なソプラノが耳に響く。おはよう、と健人はぼそっと言った。起きてたよ、の方が良かったかなと思った。
「今日は一限の授業あるから遅刻しないようにね。またあとでね」
起きているか確認する為にかけてくれたらしい。一方的に電話は切られ、声の余韻だけが狭い部屋に残る。健人はまどろんだ空気を振り切って、のそのそと起き上がった。寝てる間にかいた汗で体がべとっとしている。とりあえず扇風機をつけた。まだ買ったばかりの型の古い扇風機は、ウィーと気の抜けた音を立てて風を送り出す。
昔から朝は苦手だった。それでも高校生の頃までは実家にいたから良かった。無理やりでも母が起こしてくれたからだ。共働きの家庭で、父は健人が目覚める頃にはもう家にいなかったが、母は健人よりも少し遅い時間に家を出るため、いつも朝は誰かがいてくれた。
しかし大学から東京で一人暮らしを始めると、当然誰も起こしてくれない状況だ。目覚まし時計は無意識のうちに切ってしまう。いくつかの必修の授業は午前にとらなければならなかったが、一年目は極力朝の授業をとらないように心がけた。
大学生になって三ヶ月。一人暮らしを始めて三ヶ月。慣れないことばかりで慌ただしかった生活に、やっとルーティンができていることを自覚できる頃だった。
入学して最初の数週間は履修登録やサークル巡り、友達を作ること、広い大学のマップを覚えることに忙殺されていた。大学の端にある第一大教室から文学部の第三教室までは、他学部の棟を突っ切らなければ、短い休み時間では間に合わないことに気がついた。誰も丁寧にやりかたを教えてくれない大学生の最初のイベント群には、数日前まで高校生だった自分の対応能力とコミュニケーション能力を最大限に使わなければならなかった。
そんな中でも、健人にとって最重要項目の一つがサークル探しだった。健人は大学生になったらバンドを組みたいと思っていたのだ。
高校三年生の文化祭で、流行りのJポップをカバーしているバンドがいたことがきっかけだった。同級生が楽器を演奏している姿を見て、音楽は聴くものという概念から、演奏できるものという概念に変わった。そんなことは当たり前のはずだが、今まで与えられたものをそのまま受け入れる生き方をしてきた健人にとっては、音楽というものはメディアの向こうのものだという感覚が強かった。
そしてさらに、あとから聞いて衝撃を受けたのが、その時恋心に近い感情を抱いていたクラスの女子が、その文化祭のバンドメンバーの一人に告白したという話だった。受験目前の当時はそれに対する恨めしさもあり、何がバンドだあんなもの、チャラい男がやるものだ、と思っていたが、第一志望の大学に合格した一週間後には、自分もバンドをやりたいと心変わりをしていた。これから始まる生活への期待と、もとからあった音楽への憧れの気持ちが重なったからだろう。
音楽好きの兄の影響もあって、健人は初期のU2やクラッシュといった、ブリティッシュロック、パンクの音が大好きだった。ポールといえばマッカートニーよりもシムノン、というほどだ。日本のポップソングにないパワーと奥行きの共存に心惹かれた。
健人は春休みの間にギターではなくベースを弾けるようになろうと決心し、一人で楽器屋へと探しに行った。ベースを選んだ理由は、音楽好きだが過去に楽器経験のなかった健人にとって、大人になってから始めるものとしては、それが一番適切な気がしたからだ。聴いていたバンドに好きなベーシストがいたことも理由かもしれないが、単純にギターより弦の数が少ないのが魅力的だった。
地元の楽器屋は、昔兄と一緒に来たことがあったが、一人で来たのはこの時が初めてだった。店の壁には様々なバンドのステッカーが貼られていて、タバコとオイルが混ざったような臭いがした。しばらく一人でベースを眺めていると、髭もじゃで腕にタトゥーのある、厳つい風貌の店員のおじさんが話しかけてくれた。好きなバンドや音楽の趣味を話すと、ロック好きそうなそのおじさんは妙に優しく対応してくれた。初心者用のセットを買おうと思っていた健人だったが、長く使えるからと、もう少し良いものを安く紹介してくれた。おじさんは厳つくても目つきは柔らかかった。
そんな健人が軽音サークルの新歓に行くことは、とても自然な流れだった。複数あった軽音サークルの中の、幾つかの新歓に参加した。飲み会に異様な情熱を燃やしているサークルや、逆に週にスタジオに入る最低限の回数が決められているストイックなところもあった。
「ミック・ジョーンズのギターの音が好きなの」
そうした数ある新歓の中で出会った葵は、好きなミュージシャンの話題でそんなことを言った。
同世代の誰もが首を傾げる中、健人はまさか、と思った。 <つづく>
【次回は…】
昨夜の新歓コンパで話した彼女とは偶然にも音楽の趣味がピッタリ合った。ひとしきり音楽の話で盛り上がり、運命的なものも感じていたものの、他のサークルメンバーと話しているうちに、気付けば、彼女は先に帰ってしまっていた。しかし、翌日、偶然…