あらすじ」では伝わらない落語の魅力 広瀬和生×サンキュータツオ対談【後編】

同じ『芝浜』は一つとしてない。
志ん生、文楽ら昭和の名人から、志ん朝、談志、さらには小三治、談春、一之輔など現役トップの落語家まで、彼らがどのように演目を演じてきたのかを分析。落語の魅力と本質に迫る新刊『噺は生きている 名作落語進化論』(広瀬和生著)。
cakesでは「第一章 芝浜」を特別公開中です。 今回はその特別編として、ゲストにサンキュータツオさんを迎え、本屋B&Bで開催された刊行記念トークの後編をお伝えいたします。(※前編は→こちら

広瀬和生さん(左)とサンキュータツオさん(右)

『芝浜』に見る女性観

広瀬和生(以下、広瀬) 初心者向けの落語解説本には、よく噺の「あらすじ」が書いてありますよね。でも、「あらすじ」を読んだところで、その噺の本質はわからないじゃないですか。たとえば『あくび指南』だったら、「あくびを習いにいった」っていうだけですよね。なんだそれ? って(笑)。

サンキュータツオ(以下、タツオ) 「あらすじ」からこぼれたところが落語の面白さですからね。だから、『噺は生きている』は落語文学論でもあると思うんです。実は落語家と演目は切り離すことができないことを示している。

広瀬 そうなんですよ。演者と切り離した「演目論」はありえませんからね。

タツオ 『芝浜』の章なんて読むと、演者それぞれの女性観の違いも感じられますね。なんなら「立川談志=童貞説」を唱えたくなる(笑)。談志師匠の描く女房が、かわいすぎるんですよ。「お前さんのこと好きなの、捨てないで」って。全然、江戸前じゃない(笑)。そこが談志師匠のロマンチックなところですよね。70歳を過ぎたベテランが高座で言う「お前さんのこと好きなの、捨てないで」に胸を打たれる。最高ですよ! こんなカッコいいことはない。

広瀬 一方で、志ん朝師匠は強い女が好きだったんだと思えてくる。旦那が女房に言い負かされてしまうんです。畳み掛けるように「お前さん夢でも見たね」と女房に言われて、「夢かぁ」と飲み込んでしまう。それがまた実にいい「間」なんですよ。白酒師匠の描く女房も、「夢なの!」と押し切るから、「あ、夢だ」と旦那もすぐに納得する。古今亭は女が強いんですね(笑)。

タツオ 本の中で言うと、『富久』もそれぞれの解釈が全然違いますよね。

広瀬 そうそう。文楽の場合、主人公の久さんは貧乏でも酒乱でもないんです。あくまで普通の幇間なんですよね。だから、知り合いの旦那がいて、富くじを売っていると言われたら、ヨイショをしつつ買わなきゃいけない。しくじった旦那の家が火事になったら、詫びがかなうかもしれないから、夜中飛び起きて、駆けつけなきゃならない。つまり、「幇間という人種の悲哀」を描いている。

タツオ ほかにも文楽には幇間の噺が多いですし、自身がお座敷芸人だったことも関係しているんでしょうね。

広瀬 ええ、そして、その『富久』を貧乏の噺に変えたのが志ん生です。志ん生は『富久』を、「貧乏のドン底にいる人間がくじで千両を当てたのに、火事で札が焼けてしまって手に入らない」という噺にした。さらに、そのドラマティックさを突き詰めたのが、立川談志です。

タツオ 談志師匠の『富久』には、「寒さと貧困」がありますね。

広瀬 火事で札が燃えて、お金がもらえないことがわかったあと、泣きながらとぼとぼ歩いていくシーンは印象的です。談志は久蔵に対して、愛があるんですよ。噺をやり終えたあと、「久さんに富が当たってよかったね」と言うんです。その一方で、小三治師匠の『富久』では、久蔵の生活が困窮しているのは自業自得なんですね。「酒飲みにむすび食わせるバカがいるか!」と暴れたりして、酒乱なんです(笑)。富くじを買ったときも、他の演者だと、神棚に「(くじを)当ててください」とお祈りをするんですが、小三治の久さんは、他のやつにくじを盗まれちゃいけないって理由で神棚に隠すんですよ。

タツオ ぜんぜん神を敬っていない(笑)。そうした、ちょっとした演じ方の違いに、演者の落語観がよく表れていますね。ちょっと余談なんですけど、談志師匠の晩年に、「立川談志 71歳の反逆児」というNHKドキュメンタリーがあったじゃないですか。

広瀬 あれ、面白かったですよねえ~。

タツオ あの中で、地方の営業かなんかで、談志師匠が『富久』をやるシーンがあるんですよ。で、いままさに広瀬さんの言った、くじの賞金がもらえないと思ってとぼとぼ歩くくだりをやるんだけど、客席のおばさんがずっと笑っている。それで談志が「ここ、そんなに面白いかい?」って、高座の上で怒りを露わにするんですよね。

広瀬 怒ってましたね。楽屋に戻ると、「だから田舎はイヤなんだ!」って。

タツオ で、そのあとフェリーに乗るんですけど、飛んでくるカモメに談志師匠が弁当の残り物を食べさせようとするんだけど、カモメが食わないんです。それでまた怒っちゃって、「カモメまで贅沢になりやがって! イヤな時代になった!」って。そりゃ、観光地ですから、カモメだって、カモメ用のエサを食べすぎてるし、残り物にはなかなかいかないですよ(笑)。

広瀬 あれ、可笑しいですよねえ。非常に談志師匠らしい、いいシーンでした。「カモメさえ、『貧困』を理解しない時代になってしまった!」って(笑)。

最高に切ない『文七元結』

タツオ 『文七元結』の章も面白かったですね。このパートが、ページ数も一番厚い。

広瀬 『文七元結』という噺には、まず「実の娘を犠牲にしてまで、見ず知らずの他人に大事な50両をあげてしまうことなんて、本当にあるのか?」という疑問が横たわっているわけですよ。そこにどう説得力をもって答えるか、っていう部分に演者ごとの個性が出るんですよね。

タツオ 時代によって、その答え方も違ってくるでしょうしね。

広瀬 まさにそうなんです。行動を心理的に分析して演じる人もいれば、志ん朝のように、「落語とはそういうものだ」と割り切って「芸の嘘」を見事に貫き通す人もいる。先代の正蔵は、「あんなもの、少しでも迷っていたら、50両やらないよ」と言ったらしいですね。談志の場合も、成り行きであげてしまう。

タツオ 寝る前に思い出すと寝つけないから、「ここでやるしかない」という消去法ですよね。

広瀬 ある二ツ目に「普通、あそこで50両やりますかね?」と聞かれた志ん朝は、「そう思うなら、君はあの噺をやらないほうがいいよ」と言ったそうです。自分の中に「50両やってしまう」という前提がないと、この噺はやっちゃいけないよと。そう思うと、例えば立川談志という人は、まさに「50両やってしまう」側の人ですよね。談志は「落語はイリュージョンだ」と言うことがありましたが、ぼくはそれを「ファンタジー」と置き換えて理解しているんです。つまり、落語とは、「見ず知らずのヤツに50両をやってしまう」優しい世界だと。おそらく談志は、ファンタジーとしての『文七元結』をやりたかったんじゃないかなと思います。

タツオ 一方で、最近では、「50両をやること」、つまり、目の前の文七の窮状を救うことが、翻って長兵衛自身にも跳ね返ってくるという構成に着目して演じる人も多いですね。

広瀬 談春さんは特にそうですよね。「おめぇに言ってるんじゃない。俺に言ってるんだ」「俺なんだよ、死ななきゃいけないのは」って、巡り巡って自分に言葉が返ってくることを強調する。ちなみに、今までで最も切なかった『文七元結』は、今はもうそのやり方ではやっていないですけど、柳家喬太郎がやった『文七元結』です。普通は佐野槌の女将(おかみ)に50両をもらってからすぐに、身投げしようとする文七と出会いますよね。でも、喬太郎さんがある時にやったバージョンでは、1年後、一生懸命貯めた50両を返しにいく途中で、文七に出会ってしまうんです。

タツオ うわー、つらい!

広瀬 つまり、手元のカネを返せば、娘は戻ってくる。逆に、返せなければ女郎になってしまう。それでも、そのカネを文七にやってしまうんです。

演目は容れ物にすぎない

タツオ しかし、こうした違いの検証って、演者自身が自分の口からはなかなか語れないですよね。そういう意味でも、『噺は生きている』は重要なアーカイヴです。やはり「なんとなく違うよね」ってことだけじゃダメで、こうした検証をきちんと蓄積していかないと、落語は退化するだけだと思うんです。落語って、昭和の名人—たとえば文楽のような人がギリギリまでムダを省いて、噺を磨き上げましたよね。そこでいったんピークを迎えて、今はまた落語がどんどん長編化しています。時代とともにどうしても補足しなければならないことが増えていき、結果、噺は長くなる。もちろん解釈自体が深まっていることもあると思うんですけど、この傾向はなかなか元に戻すことはできません。じゃあ、そうなったときに、「誰が何を噺に付け足したのか?」「どうアレンジを加えたのか?」そういったことを知見として我々の側で蓄積していかないとダメだなと。

広瀬 談志という人は、そういった噺の変化や積み重ねを、すごく大事にしていましたよね。よく、「ここは小さん」「ここは文楽」「ここは俺の」なんていちいち言っていました。

タツオ そうそう。あれはメタなギャグではなく、参照元を明らかにしていたんですよね。

広瀬 たとえば『権助提灯』。あれは談志師匠が新たな解釈でつくった型が、小さん一門の弟弟子を経由して、柳家三三に伝わっている。そこには、談志そのままじゃなくて、三三さんの工夫も入っているわけです。最近、女性落語家の春風亭ぴっかり☆の『権助提灯』を聴いたんですけど、三三さんの型なんですね。ただ、一箇所だけ手を加えていました。旦那と権助が、妾と本宅の間を行き来しますよね。で、妾の家から追い返されるときに、「それ言わなきゃいけないの? 権助が聞いているからなあ。……でも言うよ。(小声で)愛してるよ」っていうセリフを加えていて。

タツオ へぇ~、おもしろい! いいセリフですねえ。

広瀬 つまり談志のこしらえた『権助提灯』があって、それを現代に伝える「三三」の刻印が押され、さらに「ぴっかり☆」という痕跡も刻まれたわけです。落語って、こういうことの積み重ねなんですよね。ただし、80年代から90年代にかけて、噺は、教えられたものをまったく変えずにそのままやることがよしとされていた時期がありましたよね。

タツオ ぼくも記憶に残っています。一ファンとしてよく寄席に通っていて、もちろんそれもすごく大事なんだけど、「でも、このままじゃ、きっと落語って終わっちゃうんだろうなぁ……」ということも思っていました。

広瀬 でも、いまや落語は「それぞれのやり方でやる」というのが当たり前に受け入れられていて、だからこそ面白い。若手の頑張りもあって、「落語ブーム」ということが言われたりもしています。それこそ、タツオさんがキュレーションするシブラク(渋谷らくご)も盛況ですよね。やはり、それぞれの演目は「容れもの」であって、そこに演者がそれぞれの魂を吹き込んで、初めて「生きた落語」になるんだと思います。つまり、「噺は生きている」。ぼくが死んだあとも続いていく。これで安らかに死ねます(笑)。

タツオ まだ遺言には早いですよ(笑)。まさに変化が訪れた時代だからこそ、この広瀬さんの仕事が起点になることを願います。まあ、一方で「そんな細かいことはどうでもいいんで、適当に聴け」って姿勢もあるので、落語に対して鷹揚に接していたい気持ちもありますが、広瀬さんのようなことをしてくれる人がいないと歴史も秩序もなくなってしまう気すらします。ぜひ、『噺は生きている』の第二弾、第三弾を期待しています。

広瀬 ありがとうございます。でも、この本を書くの、本当に寿命を削るくらいたいへんな作業なんですよ(笑)。

タツオ じゃあ、次はチーム広瀬の人材を募りましょう!(笑)

(対談司会:九龍ジョー、取材構成:山本ぽてと)

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噺(はなし)は生きている 名作落語進化論

広瀬和生

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a_tocci タツオ そうそう。あれはメタなギャグではなく、参照元を明らかにしていたんですよね。 https://t.co/kRZO7iWbGQ 約3年前 replyretweetfavorite

a_tocci 広瀬 談志という人は、そういった噺の変化や積み重ねを、すごく大事にしていましたよね。よく、「ここは小さん」「ここは文楽」「ここは俺の」なんていちいち言っていました。 https://t.co/kRZO7iWbGQ 約3年前 replyretweetfavorite

YamamotoPotato 「マニアック対談」と言われた対談の後編です。構成しました→ 約3年前 replyretweetfavorite

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