しかし頼まれた方のフジテレビ、人気バラエティ「夢で逢えたら」の後枠を引き続き担当することになっていたプロデューサーの佐藤義和も、最初から必ずしもSMAPの起用に乗り気だったわけではない。
むしろ彼のそれまでのポリシーは、「アイドル系のタレントを否定してバラエティ番組を作る」というものだった。
実は1948年生まれの佐藤はちょうど思春期に、「シャボン玉ホリデー」、そしてあの「夢であいましょう」を見ている。
そして「シャボン玉ホリデー」における歌と笑いの融合、「夢であいましょう」におけるおしゃれで気取ったユーモアの世界は、実際に10代の彼に大きな影響を与えていた。
しかしテレビの前の佐藤は感心だけでなく、やがてその世界に微かな違和感も覚える。
「僕が引っかかっていたのは、ザ・ピーナッツやクレイジー・キャッツなどの音楽の世界の人々が、こうした笑いをつくれるのに、専門家であるはずのお笑いタレントたちが、この水準にいっていないことだった」
「僕は、お笑いの世界の人間によるバラエティショーをつくりたい」
その後フジテレビに入社した佐藤はディレクターとして、その信念を芸人だけで構成したバラエティ番組「オレたちひょうきん族」(フジテレビ)に託すこととなる。
同時代に視聴率争いをしていた「8時だョ!全員集合」(TBS)との大きな違いはそのまま、アイドルタレントの出演を売りにするか否かだった。
「『8時だョ!全員集合』に代表されるように、アイドルタレントは、バラエティ番組の飾りとしては、非常に重宝な存在だった。場を華やかにしてくれる。しかもアイドルタレントは、人気があるのだから、視聴率には貢献してくれる」
「ただし、番組はその人気に引っ張られ、視聴者層もそのタレントのファンで占められる。視聴率はとれるかもしれないが、人気が引っ張る番組にクリエイティビティは期待できない」
実際に佐藤は最初、SMAPに笑いを教えてほしいという申し出もやんわり断っている。
それもそのはず、「オレたちひょうきん族」を成功させた彼の熱意とノウハウは、当時まだ次世代のお笑いタレントに注がれたばかりである。
それが「夢で逢えたら」であり、レギュラーであるダウンタウンとウッチャンナンチャンだった。
「夢で逢えたら」は2組のゴールデン進出という理想的な形で1991年の秋に放送終了が決まっていた。
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