薄らぼんやりとした不安はあったが、あまり考えが及んでいなかった。
彼は恋愛に夢中で、それ以外のことにあまり目が向かなかった。
夢中になるとそれ一筋という彼の性質は、クッキー作りには向いていたけれど、こういうことには向いていない。
三年生に進級した小森谷くんだったが、後期の履修登録をしているときに気付いてしまった。
ここからフルで単位をとったとしても卒業資格には到達しない。二浪、一ダブリという肩書きが、知らぬ間にできあがっている。
「お互い、反省しなきゃな。これ以上、母ちゃんを泣かせられないしな」
しんみり語る土岸に、彼も深々と同意した。土岸も彼と同じく留年を決めたらしい。
母親だけではなく、彼女にも悪かった。
彼女を優先するあまり学業がおろそかになるというのは本末転倒で、それは本当は、彼女のことを考えていないということだ。
彼女のことが大切ならば、それ以外のこともちゃんとするべきなのだ。
「それはそうと、お前、最近ちょっと夢中すぎない?」
「夢中すぎ?」
「ああ。文子さんと、うまくいってるのはいいけどさ、おれたちとも疎遠っていうか、お前、最近ちっとも家事やってねえだろ?」
「ああ……申し訳ない」
確かにここのところ彼は彼女のアパートに入り浸りで、三人暮らしの家にほとんど帰らなくなっていた。
分担していた家事や掃除当番もすっぽかし、仁義がない、と言われてもしょうがない状態だった。けれど、それとは別に、彼には思うところがあった。
彼はずっと、自分より先をゆく土岸に、憧れのような感情を抱いていた。
それは彼の焦りでもあったし、彼のコンプレックスにも結びついていた。
自分の態度や行動について、土岸はどんなふうに思うだろう、とか、土岸だったらどうするだろう、とか、考えなくてもいいことを常に意識させられていた。
もしかすると、土岸は彼にとって父性の象徴だったのかもしれない。
土岸のようにならなければいけない、土岸に侮られないように生きなければならない、と過剰に意識していた。
父親が不在だった彼にとって、土岸はある時期から、ずっと父親の代わりだったのかもしれない。
彼女ができてから、それではいけない、と自覚するようになった。
ある時期になると子供が親離れをするように、土岸と少し距離を置くようになっていた。
もちろん大切な友人ではあるのだけれど、自分と土岸とは違う。土岸のようにはなれないし、ならなくてもいい。
この少し後、彼らの三人暮らしは解消されるのだが、そのことは彼のそういう感情と関係なくはなかった。
「この姿、ちょっと異様だよね」
ラブホテルのバスルームで、文子さんに髪を切ってもらっていた。
「確かに、あまり人には、見せられないね」
「でもおれ、幸せだよ」
「……うん。わたしも」
「二十一世紀は、ずっと文ちゃんと一緒にいるよね」
「そうだね」
桃色の両思いは続く。二人が付きあいだして、もう一年以上が過ぎていた。
「文ちゃん。好きだよ」
鏡に映る彼女に向かって、彼は心を込めて伝えた。彼は全裸でバスチェアに座っている。
「わたしだって、モリくんが好きだよ」
「うん。でも、おれの方が好きだよ」
「ううん。わたしの方が好きだよ」
シャカシャカシャカシャカシャカ、と幸せな音は続く。二人はバスルームのミラー越しに目をあわせる。
「文ちゃん」
「モリくん」
優しい目をした彼女とフルチン姿の彼は、しばらくの間、見つめあった。
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