4年前の夏、唐突に「ミスiD」というアイドルオーディションに出場した私。
しかし、手放しに応援してもらえるわけもない。
「詩人」の肩書きを持つ私は、「詩を利用するな」「おこがましい」と厳しい非難を浴びた。一時はオーディションに応募したことを深く後悔し、心が折れた。
批判者の多くは、ひとしきり非難した後でこう言い添える。
「今は若いからいいけど、あと5年10年したら……」
「数年後には消えている」
若いからチヤホヤされて、女の子だからって重宝されて、いい気になって消費されて、そんなのいつまで続くと思う? と脅し文句のような一言。
彼らは不確定な未来を人質にして、「痛いよ、みっともないよ」と特定の誰かを指さし、足を引っ張る。そうすれば、大人の振りができる、って信じているんだろう。
確かに、一つの価値が持続することは稀だ。でも持続しないからこそ、尊い価値もある。
自分の価値を自覚して誇ることの、何が悪いのだろう。「今の自分」に賭けて、瞬間的な歓びに生きることの、何が悪い?
「自分の存在で救われる人がいるかもしれない」ってどうして夢見ちゃいけないんだろう? 一度くらいは夢見たことあるでしょう? 忘れたような顔しないでほしい。
ええい、ままよ。憤った私は、自分を批判するツイートを一つ残らずリツイートした。すると、なんだか胸がスッとした。
今さらなんだというのか。10代での文学賞受賞をきっかけに、周囲の対応は一変した。
世間から「天才」と持ち上げられる反面、意に沿わないことがあったのか、今まで目をかけてくれた大人たちの一部は、なぜかそっぽを向いた。大きな渦の中に放り込まれたようだった。知らない人から容姿のことで叩かれたり、心当たりのない噂を流されることもあった。
当時18歳だった私は、そのことを「当然だ」と諦めて受け入れることも、覚悟して闘うこともできずに、ただただ困惑して憤った。反論の術もなく、私は周囲の評価を飲み込み続けた。
Twitterにはリツイートという拡散機能がある。もう他人の一方的な評価を、一人で抱え込む必要はないのだ。私はリツイートボタンの矢印に、念を込めて指を置いた。今まで無いことにされてきたものを、押しつぶされそうな息苦しさを、目を背けずにみんなに見てほしい。
使命感にも似た勇気が湧いてきた。私はようやく、自分の闘い方を見つけられた気がした。
ポエドルとして最終選考へ
半ばやけくそな気持ちで始めた、批判のオールリツイート。その行為自体が、一種の布教活動にもなったのだろうか。少しずつ応援の声も増えていき、私の詩集を買ってくれる人や、なんと「ミスiDでは文月推し」と語るファンも現れはじめた。
その様子に再び心を決める。なんとしても私はオーディションをやり遂げて、結果を残さなければ。もう後へは引けないのだ。
大方の予想を裏切り、私は応募総数2714名からファイナリスト35名に残り、最終選考に勝ち進んだ。