ふたりとも、この場で首をはねられてもおかしくない。
「では、信長殿はいかがなされるおつもりか」
「もはやこれまで」
信長は目をとじた。
これは困る。
——こんなところで、死ぬわけにはゆかない——
そもそも家康は、越前朝倉とも北近江浅井とも何の恩怨もない。ここにいるのは織田と徳川の同盟による出兵にすぎないのだ。勝っても負けても家康にはなにひとつ利することはない。
三河の地で戦死するならいざしらず、こんな何十里と離れた異郷の地で敵に包囲されて戦死するわけにはゆかない。
そして織田は、信長ただひとりの個人的な力量でかろうじて維持しているのだ。
「俺は、ここで腹を切る」
信長が、そういった。
次の瞬間、家康は、明智光秀と木下秀吉と目があった。
——信長を逃がせ——
三人の意見が目で一致した。
壱 洛中にて
一 洛中集合
永禄十三年(一五七〇・元亀元年)、四月十四日。
「なあ、本当にわしがここにいてよいのか」
徳川家康は、おもわず接待役の木下藤吉郎秀吉にたしかめた。
「もちろんであります」
秀吉がささやいた。大声でこたえる話ではない。
場所は京都二条。
昨年、十五代将軍足利義昭の居城が京都二条に改築され、その竣工祝いの席に、家康は織田信長から招待されたのだ。
このとき、徳川三河守家康二十九歳。接待役に任ぜられた木下藤吉郎秀吉は三十四歳。
「弓箭刀槍銃弾のとびかう場ならまだ勝手がわかるのだが」
「そのお気持ちはよくわかりまする」
家康も年齢の割に、そして三河の国主という立場の割に、何度となく命の危険にさらされてきたが、秀吉も家康に負けず劣らず苦労人だと聞いている。
徳川家康が織田信長と同盟を結んだのは永禄五年(一五六二)のこと。家康の長子・竹千代(徳川信康)と信長の長女・五徳姫との婚約は永禄六年(一五六三)に成立した。信康と五徳がともに九歳。
織田信長は家康を家臣とはせず、同格の同盟者として遇した。信長の意図は家康にはわからない。
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