信長の戦略の特徴は、その圧倒的な資金力を背景にした、大軍の一極集中・短期決戦・短期離脱にあった。ただ、信長自身は万単位の大軍を組織立てて運用するのは決してうまくない。
尾張の再統一時代には七百騎の手勢で二千騎をこえる敵を撃破したことも一再ならずあったそうだが、伊勢を攻めるときに何万騎かで敵城を包囲したが攻めきれなかった。次男・信雄を伊勢国司北畠氏に、三男・信孝を北伊勢神戸氏に、それぞれ人質に差し出すことでようやく伊勢を手に入れた。
信長は、子供の喧嘩に毛の生えた程度の小規模戦闘の天才ではあった。その一方、どんなに合戦で敗北しても大局的な戦略上で勝利をおさめることにもたけていた。この中間の、大軍の用兵と戦術の才能がなかった。
大軍の運用の基本は、組織的行動能力と人材管理能力と意思疎通能力にある。織田信長には、このみっつだけが、絶望的なまでに欠けていた。
雨、であった。
織田木瓜が染め抜かれた陣幕は降雨を吸わぬように折りたたまれ、雨よけにひろげられた一間の大傘の下で、信長が腕を組んで床几に腰かけていた。
信長の形相に、家康はひるんだ。
もともと迫力のある男である。
何を考えているのかわからないし、何をするのか見当もつかないが、だれも予想のつかない結果を、誰も理解できない過程をへて見通す。
要するに、とりあえず家康のような凡人には理解できないような先の先まで見通しているので、黙ってついてゆけばなんとかなる、というのがおおかたの信長評であった。
それが、みるからに困惑と怒りに満ちている。
信長の横には、ほんの何人かの馬廻衆と——
木下藤吉郎と——
明智光秀が——
いた。
家康は、馬をおりた。
織田家中でも屈指の早耳ふたりが、笠をぬぎ、顔面を蒼白にして、大童で剃り上げられた頭を雨に打たれるままにし、ひざまずいてうなだれている。
家康は笠をほどいた。信長の前にひざまずこうとすると、
「徳川殿はひざまずかずともよい」
信長は顎で空いている床几をさした。
家康は座った。
「こいつらから聞いた。徳川殿がくるのなら間違いない」
何が、とはいわない。
浅井長政の武名は三河までひびいている。しかもこのとき、地勢的にも織田の主力は最悪の場所にあった。浅井長政に側面を突かれれば、一瞬で織田・徳川連合軍は壊滅する。浅井長政離反の噂が立っただけで、織田が陣をはったまま瓦解するのは明白なのだ。