「どこまで原典に忠実であるべきか」吹っ切れるまで
—— 久保田さんの絵は、目や顔を隠された人物、手足など人体のパーツといった、不完全性あるいは欠損をイメージさせるものが多いですね。
久保田沙耶(以下、久保田) 古い彫刻を写真に収めたものに手を加えているんですけど、何か大切なものが欠けていたほうがいいなあ、と。私の作品に、縄文土器のような考古遺物の欠けた部分を宝石やガラスなどの母体とは縁遠いマテリアルで埋めるシリーズがあるのですが、そこから派生したアイデアかもしれません。今回の連載でも、欠けた部分を何か不可解なもので補完して、不完全なものをあたかも完全体のように描くことで、言葉がビッチビチの活魚のようになってくれる感じがして(笑)。
一同 (笑)。
久保田 なるべく鮮度を高く保つために、見てくださる方が無意識的にでも能動的になるようなからくりを与えたかったのかもしれません。それが欠損だったのかなと今になって思います。でもおそらく連載時はそこまで考えていなくて、いただいた詩に対して、とにかく打ち返す、スポーツみたいな心持ちでしたね。
—— やりとりを重ねていくにつれて、ご自身の絵がこなれてくるようなことは?
久保田 ありました!
菅原敏(以下、菅原) 即答ですね(笑)。
久保田 最初は手探りでしたし、お互いにもっと緊張感もあったんですよね。そのときはそのときのよさがあったと思うんですけど、こなれてきたことで当然失ったものもあれば、出せる技術も変わってきたというか。
菅原 肩の力が抜けてきた感じですか?
久保田 はい。もっと崩しても大丈夫だとか、あるいは逆に「ここはカチッとさせるべき」みたいなさじ加減が、良いのか悪いのかわかりませんが、だんだん定まってきた感じでした。面白かったのは、絵の具の塗り方がはじめはかなり几帳面に塗っていたのが、大胆に塗るようになっていったんですよね。キャンバスとして扱った詩集の、古いものがもつ独特の「怖さ」や「畏れ多さ」がもっと馴染みあるものになっていった結果というか。古いものと勝手に友達になった感じです。菅原さんとのやりとりの中から変わっていった相互作用はあると思います。
菅原 超訳は、行為としては「暴力的」であるぶん、私も最初は優しく細やかに触れてあげるような感じだったんですよね。裏を返せば、「どこまで原典に忠実であるべきか」とか「忠実すぎたら自分が訳す意味はないんじゃないか」といった迷いがあったということです。それが吹っ切れてからは、より自分の色を出せるようになった気がします。その最たるものが、クリスティーナ・ロセッティの「いくつかの答え」ではないかと。
—— ちょうど、その詩についてお聞きしたいと思っていました。
菅原 ロセッティの「いくつかの答え」の原典は、たった4行の短い英文なんです。それを超訳しているうちに、自然と原典から流れていくように訳が変化していって、最終的に原典と対となる後半部分の詩を、私からロセッティへのアンサーとして加筆するに至りました。だから、もともとあった原典への強い思い入れと、それをいまの言葉に変換したいという欲求がうまく重なった、自分にとっての超訳の意義を見出した作品といえます。
ゲーテだったら、彼女の家からの帰り道、環七沿いをスキップしてたんじゃないかなって
—— お二人のコラボレーションからは、古典を骨董品扱いするのではなくて、普段使いできるものにするような意図も感じられました。
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