古典詩を超訳することで、広く詩の面白さを伝えたかった
—— 「かのひと 超訳 世界恋愛詩集」は、古典詩を現代の言葉で訳し直されていますが、これってなかなかチャレンジングですよね?
菅原 敏(以下、菅原) 詩集って翻訳が昔のままストップしているものも多いんです。だけど、昔の詩から伝わる詩情みたいなものは現代でも十分共有できるものだし、図書館の片隅で埃をかぶっている詩集たちの中から宝石を見つけだして、磨いてあげたかったんですよね。
もともと私は、日本の詩よりもむしろ海外の詩に触れて詩人の道を目指すようになりました。たとえば明治期の詩人・翻訳家の上田敏が日本に初めてヨーロッパの象徴詩を紹介した『海潮音』という訳詩集を、学生時代から読んでいたんです。昔の詩は言葉遣いの古さゆえに読みやすいものではないんですけど、その古さに敬意を払いつつ詩の輪郭をいまの言葉でなぞることで、もっと広く詩の面白さを届けられるんじゃないかなと超訳にチャレンジしました。
—— 菅原さんの訳と一緒に、久保田さんの絵を載せられたのは?
菅原 cakesで連載するにあたって、言葉だけでなく、素敵な絵を添えたらより詩のイメージが広がるんじゃないかという話になりました。久保田さんは、時間をテーマに、古いものに新しいものを重ねたときにその価値がどう変わっていくのかを探る作品をずっと作られていて、今回の連載にぴったりなのでお願いしました。
久保田沙耶(以下、久保田) 菅原さんから声をかけていただいたのは、ちょうど私がイギリスの修復の学校へリサーチアーティストとして留学する直前で、普段以上に「古いものの本来の価値」について考えていた時期だったんです。それと同じことを、菅原さんは、私が尊敬して止まない「詩」という分野で実践されるということで、「何かお手伝いできるのであればぜひ」という気持ちからお受けしました。
菅原 連載が決まってまず最初に、久保田さんのキャンバスとなる古い本を探しにいったんですよね。
久保田 古本屋をハシゴして、200年前に出版された詩集を見つけました。古い詩を超訳するというのはある種、暴力的な行為であって、菅原さんにとってもすごく勇気のいることだと想像しました。なので、私も同じくらい、敬意を払いつつ、新しいものを重ねて壊していける土台のようなものが必要だと思い、この美しい古い詩集をキャンバスとして選びました。
—— (久保田さんの古い詩集をお借りして)これ、めちゃめちゃかっこいいですね。
久保田 ありがとうございます。この本を探す過程で「ただ古ければいいわけじゃない」とも感じたんですよね。つまり古さの中にも、そこから何かを継承したり、新しいものに変換したいと思わせる古さと、そうではない古さがある。今回菅原さんが選ばれた詩も、ただ古いだけではないですよね。
菅原 そうですね。大きな枠として恋愛詩に限ったのも、国や時代が違っても、恋する人のありようというのはなにひとつ変わらないんだなって、強く感じたからで。
久保田 そういう意味では、扱う素材こそ違えど、同じレイヤーでものを考えていたのかなって。
詩の翻訳はレインコートを着てシャワーを浴びているようなもの
菅原 最近、ジム・ジャームッシュ監督の『パターソン』という映画の試写会に行ってきたんですけど、劇中で永瀬正敏さん扮する日本人の詩人が「詩の翻訳はレインコートを着てシャワーを浴びているようなものだ」というセリフを英語でいうんです。本当に、その通りなんだけど……。
—— 裸でシャワーを浴びるには、その詩を原語で読まなければならない、ということですね。
菅原 その言葉の裏側に「それでも、私たちは翻訳を続けなくては」という思いが隠れているように感じたんです。やっぱり翻訳がないと、言葉が国境を越えてゆくこともできないし。今回私が行ったのは純粋な翻訳ではなく、正しく訳すよりも「もし昔の詩人たちがいまの時代に生きていたら、こんな風に伝えるんじゃないか」と、イタコのように彼らと眼差しを重ねて、勝手にコラボレーションしている感じ。だから普段自分ひとりで詩を書くのとはまったく違う体験で、古い詩人と私と、さらに久保田さんの三者が時空を超えてつながる面白さが詰まっているんじゃないかなと思います。
久保田 正直、当初は「超訳」ってよくわかっていなかったんです。連載のお話をすすめていくうちに、いま生きている菅原さんが、過去の詩人とコミュニケーションを図ろうとしているのでは、と思うようになりました。それならば、私も同じ姿勢で向き合いたいなと思いました。
—— お二人のやりとりはどのように?
久保田 最初に詩のタイトルのみ、もしくは粗い訳をいただいて、それに対して私が絵を描いて、その絵を菅原さんにお返ししてっていう、絵と言葉の往復書簡のような感じです。絵を描くときはだいたい、その詩が持っている世界からなるべく“はみ出す”ことを意識していました。
—— はみ出すとは?
久保田 詩というのは、そこに書かれた言葉を文字通りの意味で捉えるのは逆に難しくて、その言葉に貼り付いているきめ細やかな背景や、行間を感じて味わうものだと私は思っていました。だから詩を絵にする場合も、そのまま描くのではなく、ある種のブレみたいなものがあったほうが正しいだろうと思って、そうするとまた違った訳が返ってきたりするのも楽しみでしたね。
菅原 絵をいただくと、言葉そのものが鮮やかな色味を帯びていくようなところがあって、そこから導かれていくことも多かったですね。あるいは、古典作品を私が言語で翻訳しているように、私の言葉を絵に翻訳してもらう。そういう、言語を超えた翻訳作業みたいなものの楽しさを、久保田さんとのやりとりの中で感じていました。
連載はハードだったけど、過去の詩人たちに助けられた
—— 久保田さんの絵によって、菅原さんの訳が変わった具体例ってありますか?
菅原 主に語尾だったり、文体の細かなニュアンスだったりが変わっていったのですが、たとえば与謝野晶子の「みだれ髪」は、久保田さんの絵にだいぶ影響を受けている気がします。
—— 「みだれ髪」の絵は、心臓ですね。
久保田 髪が乱れているときは、心臓も乱れるだろうと(笑)。
菅原 この心臓の絵が返ってきたことで「くろ髪の千すじの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもいみだるる」という一節が、「黒くてきれいな わたしの髪も あなたがふれた 心臓も みだれ みだれて 朝になる」になったんだと思います。こういうやりとり自体は非常に楽しかったのですが、週1回更新の連載だったのでかなりハードでしたね(笑)。
久保田 ずっと夏休みの宿題をやってるみたいな(笑)。
菅原 連載を始める前に、ひとりで1カ月くらい図書館にこもったりして、ストックを溜めてたんですが、それでも締め切りを重ねていくうちにどんどんストックがなくなって。結局、毎週違う詩人と会って、彼らの人生と向き合うみたいなことをやっていたので、しんどい連載でした。
ただ、矛盾するかもしれないんですけど、一方でこの詩人たちに助けられた日々でもありました。毎週ひとりの詩人を訪ねるのは大変だけど、彼らの暮らしをつまびらかにしていくと、恋愛も含めて、やっぱりみんな苦労してるんだなって励まされました(笑)。
次回「いまを生きている女の子たちも、小野小町も、考えてることはなんら変わらない」は9/26公開予定
構成:須藤輝