序 虎穴の四人
——信長を逃がせ——
徳川三河守家康は、明智十兵衛光秀と木下藤吉郎秀吉の目をみた瞬間、まるで経歴も性格もここにいる立場も違う三人が、まったく同じことを考えているのがわかった。
元亀元年(一五七〇・永禄十三年・四月二十三日改元)、四月二十八日、敦賀。織田信長本陣。
織田信長・徳川家康・明智光秀(足利義昭名代)連合軍三万は、四月二十五日に敦賀に着陣した。十五代将軍足利義昭の上洛命令を蹴った、越前朝倉義景を討つためである。
ほぼ即日、越前手筒山城は落城した。引き続き金ケ崎城攻めにとりかかった。
信長本人はなかなか敦賀の本陣からうごかない。
家康は、信長がああ見えて実はかなり慎重で根気強いことを知っている。こまかい配慮をする男でもある。
家康は、他人をそこそこ信用しつつそこそこ裏切られるつもりで付き合う。信長にはこの「そこそこの距離で付き合う」能力が決定的に欠如しているのも、家康はよく知っている。信長は、めったに人を信じないが、信じるときには無防備なまでに徹底的に信じる。
この越前朝倉攻めの陣においては、織田・徳川・足利連合軍が敦賀表の正面から、北近江の浅井長政が北国街道沿いに側面から、それぞれ朝倉義景を討つことで進軍してきた。
しかし、いまだに浅井が動く気配をみせない。家康は諸方に斥候や伊賀者を放って情報収集を続けたが、浅井に動く気配がない——どころか、どうも、朝倉と謀って逆に織田を挟撃するつもりらしい、という。
雨、であった。
この日を太陽暦に換算すると六月一日になる。燕たちは巣づくりを終えて最初の子育てにかかっていた。敦賀湾岸では二十四節気の芒種を前に麦の刈り取りをおえていた。
家康は馬廻衆とともに信長本陣に走った。
浅井長政謀反の現場に居合わせたのだ。敦賀の信長本陣に向かわねばならない。