続-「ソシュールと言葉による物の区別」
先生 たくさんの人だろうが専門家だろうが、「人間が決めたこと」に変わりはない。ひろは「十日ネズミ」の名づけ方をおかしいと感じたようじゃが、しかしあらゆるものの名前は結局のところそのように人間の好き勝手につけられてきたのじゃよ。
ひろ すいませんねえ僕たち人間が好き勝手しちゃって。
先生 別に責めているわけではない。なにしろ、ものに言葉を当てはめる方法など「人間の好き勝手」以外にはないんじゃからな。しかし、人間がその名をつけた途端にその存在が独立して認められるようになるとすれば、あらゆるものは「実体があるから名前がある」のではなく、「名前があるから実体がある」ということになるのじゃ。それは「柴犬」も「チワワ」も「犬」も「猫」も「机」も「椅子」も、すべて同じことじゃよ。
ひろ え。犬も猫も机もですか? 柴犬とチワワまではネズミの延長でわかるけど、その先が飛躍しすぎのような……
先生 そうかな? そもそも「言葉とはなんのためにあるのか」に着目すれば、なんであれ同じだということに気づくはずじゃ。どうじゃひろ、ここまで聞いてみてどう考える? 言葉は、なんのためにあると思う?
ひろ 言葉は…………、愛する人に、愛を伝えるためにあるんです!
先生 19世紀に、ソシュールという言語学者がいた。哲学者でもあったソシュールは、
言葉について「言語とは、差異のシステムである」と定義したのじゃ。
ひろ 僕のこじゃれた回答を無視しないでっ!!
先生 言語とは、差異のシステムである。要するに、言葉とは、「あるもの」や「ある状態」を、他のものと区別するために存在するのじゃよ。