「鈴木様、いつもありがとうございます。本日お誕生日ということでラインストーンを無料でお付けできますが、いかがですか?」
32歳になったその日、せっかくの誕生日が日曜日であることを呪いながら英恵はネイルサロンにいた。
「あ、いえ。ストーンは大丈夫です。彼がキラキラしたネイルは苦手だと言っていたので……」
断りながら、このネイルを洋司が見ることはあるのだろうか、という疑問が浮かんだ。このネイルが伸びきるよりも前に、洋司が会いにきてくれる夜はあるのだろうか。
「そうですか。かしこまりました。では、右手のオフから始めていきますね」
「お願いします」
憧れの上司だった洋司との不倫が始まったのはちょうど一年前のことだ。去年の誕生日は金曜日で、洋司がリーダーを務め、英恵がアシスタントしていた一つの大きなプロジェクトが節目を迎えた日で、チームのみんなで打ち上げをしていた。
その日、洋司は一つの席に落ち着くことなく、部下一人一人の隣に座っては「あの時の君のあの動きのおかげで、俺は助かったんだよ。ありがとう」などと労いの言葉をかけて回っていた。上司風を吹かせない男なのだ。洋司のそういうところを英恵は素敵だと思っていた。
そうして英恵の隣にも座った。メインアシスタントとして支えていた英恵は残業続きでキツかったのだが、そんな日々が報われるような労いの言葉をかけてくれた。
それからしばらく雑談をしていた。流れで、今日が英恵の誕生日であることが話題に出ると、洋司は「え、じゃあ、この後は彼と待ち合わせ?」と聞いてきた。「彼なんていませんよ。寂しい誕生日です」と答えたら「そうなの? じゃあ、今年の誕生日は、俺がもらってもいい?」と言ってきた。びっくりした。言葉に詰まっていると耳元まで近づいてきて「店出たら、2次会は行かないでね。1人になったら俺に連絡ちょうだい」と囁かれた。そしてその夜に2人は初めて寝たのだった。
それ以来、英恵は洋司と付き合うようになり、ずっと順調だった。
雲行きが怪しくなったのは3週間前のことだ。
いつも通り、洋司が英恵の部屋に訪れていた日だった。誕生日まで1ヶ月を切っているというのに、とくに話題にのぼることがなかったので、自分から切り出したのだった。
「もうすぐで、私とあなたがこうなってから1年だね」
「そうだね」
「今年も誕生日はお祝いしてくれるの?」
「うん、もちろん」
「ほんと? 日曜日だけど」
「あー、うん。だから当日は難しいよ。少し早いけど、金曜日にお祝いしよう」
ちょっとムッとした。不倫であることは解っている、家庭が最優先であることも。
でも、そんな風に堂々と、他の女である奥さんを優先されると、やはり気分が悪い。あなたは「妻を優先するのは仕方ない」と思っているのかもしれないけれど、私からしたら、ただの私以外の女だ。他の女のせいで誕生日に会えないなんて、正直やり切れない。
それでつい不満を口にしてしまったのだった。
「ねえ、その日曜日は会えないっていうやつ、いつもはしょうがないと思っているけど、1年に1度も無理なの? 誕生日だし、1年記念日でもあるのに……その日くらい、どうにか出てこられないの?」
「……ごめん、その日は子どもの運動会があるんだ」
「……夜は? 運動会って夕方には終わるんでしょ?」
「そうだけど、その日は難しいよ……」
はじめてぐずった英恵を、洋司は困ったように笑いながら抱き寄せてきた。
「……じゃあ、お祝いしてくれる金曜日は、朝まで一緒にいたい」
「……」
「……土曜日は家族サービスの日だから無理か。じゃあ、今日は? 今日このまま帰らないで朝まで一緒に眠るっていうのは? それもダメ? いいじゃない、今日だけなら。ただの平日だよ」
洋司の背中に回していた手にギュッと力を入れ、ありったけの甘えん坊モードで英恵は粘ったが、洋司は答えなかった。そっとキスをしてから「シャワー浴びてくるね」と言い、その後はいつも通りに、帰ってしまったのだった。
そしてその日以来、洋司の態度が変わった。連絡をすれば返ってはくるものの、具体的な日にちが提案されなくなり、「忙しい」日々が続いていて、お祝いすると言っていた金曜日にも結局会えなかった。そんな時にいつもだったら添えられている「近々必ず埋め合わせするから!」の1行もなかった。
*
「鈴木様、本日の施術は以上になります」
いつの間にか、ずいぶんと時間が経っていたようだ。
ネイリストが会計の準備のため受付に向かい、ひとり個室に残された英恵は身支度を整えながら、ため息をついた。ああ誕生日だというのに今日の予定はもうこれで終わりだ。
腕時計を見ると18時だった。今日が終わるまで、あと6時間もある。そう思ったらウンザリして、ウンザリしたことにもウンザリした。洋司との関係が始まってから、土日は憂鬱な曜日になった。土日というだけで気分が沈んだ。今日はそこに記念日と誕生日までもが加わっている。なんだかもうコテンパンだ。
「あなたの人生の作戦会議をします」
そう書かれた小さなカードを英恵が見つけたのは、お会計をする前に入ったトイレの中だった。
あれ? いつもこんなものあったっけ?と思いながら手に取り、裏面を見ると「往生際ハナコの作戦会議室」の文字と、ネイルサロンからほど近い場所の住所と電話番号が載っていた。
*
「こんにちは、王生際ハナコです」
「す、鈴木英恵です。よろしくお願いします……」
トイレでカードを見つけてから20分後、英恵は呆気にとられながら自己紹介をしていた。帰りたくなかった、時間を潰したかった、何かを変えたかった、モヤモヤしていた。そういう色んな状況が英恵をこの場所に導いた。
勢いで来てはみたものの、どうしたらいいか分からない。とりあえずハナコの顔を見る。