志ん生・志ん朝との違い——馬生
十代目金原亭馬生は父・志ん生の『芝浜』をアレンジして独自の演り方をしていた。
主人公の名前は熊で、冒頭、この男が酒にだらしないことを地で語るのは志ん生と同じ。ただ、志ん朝が受け継いだ「昼飯のときに酒を飲むようになった」というエピソードではなく、「二日酔いで迎え酒」の繰り返しで商いに行かなくなったと説明する。
この熊が自ら「明日から働くから元を都合してくれ」と女房に言い、翌朝起こされるとすぐに出かけるのも志ん生と同じ。ただし馬生のほうが熊の反省の度合いが強く、「おっかぁ、すまなかったな。俺は明日から酒やめて一生懸命働く」「やっと気づいてくれたんだね、うれしいじゃないか。お前さんだけが頼りだよ」と女房を喜ばせている。
弟・志ん朝はこの最初の朝の場面だけ四代目つばめ系の演出を取り入れて、「明日から商いに行くから今夜好きなだけ飲ませろって、ゆうべあれだけ飲んだじゃないか。約束だから行っておくれよ」と女房が無理やり亭主を起こし、亭主が盤台がどうの、包丁がどうのとグズグズ言うのを「大丈夫だから」と送り出していた。
三木助・談志・圓楽といった四代目つばめ系の演出では、最初の朝の「盤台が使い物にならない」「糸底に水張ってあるから大丈夫」「包丁が」「ピカピカ光ってる」「草鞋」「出てます」という夫婦の会話は、のちに改心して商いに行こうとする亭主が再び繰り返して「夢にも同じような場面があった」と笑いを呼ぶのだが、志ん朝はそれは踏襲していない(小三治は最初の朝の盤台や包丁のくだりは女房の独り言ですませ、改心したあとは特にそういうやりとりはない、という演り方で、志ん朝に近い)。
問題はその先だ。
志ん生演出だと亭主が出て行ったあと、女房側の視点となって亭主が帰ってきて驚くことになるが、馬生は芝の浜で財布を拾う場面を熊の視点で(ごくあっさりとではあるが)リアルタイムで演じる。
家に帰った熊が金を数えると50両。酒を飲んで寝た熊は昼ごろ目が覚めて湯へ行き、友達を連れてきて「めでたい、めでたい」とガブガブ飲んで寝込み、翌日の昼近くに目が覚める……つまり、三木助や可楽がカットした場面も志ん生がカットした場面も、馬生は全部演じているのである。
馬生の型に談志の激しさ——権太楼
この十代目馬生の型は、三遊亭圓窓を経由して柳家権太楼に受け継がれている。
ただし、権太楼は冒頭の夫婦の会話で熊の反省の度合いは馬生ほどではなく、女房から「お前さん、酒やめてくれる?」と迫っている。
権太楼の『芝浜』では日の出を見ながら一服する場面はなく、顔を洗ったときに手拭を落っことして財布を拾うが、これも馬生のとおり。
家に帰って数えてみると50両。ここから先の展開も馬生と同じだが、権太楼の演じ方は実にダイナミックで、淡泊な馬生の『芝浜』と印象は正反対だ。
夢だと言われてもなかなか信じられず、「行ってねぇ……? そんなことねぇ、そんなことねぇ!」と混乱したあと、「夢……?」と絶望的な表情になる熊。そんな亭主に「借金なんて、そんなことどうでもいいんだよ! しっかりしておくれよ、お前さん! しっかりしておくれよ……」と泣き声で訴える女房。権太楼ならではの、胸に迫る場面だ。
権太楼の『芝浜』は、感情表現の激しさという点では談志を思わせる。
馬生は「早いもので3年も経つとすっかり借金を返して表通りに店が出せるようになった」と説明し、「若い衆はみんな湯へ行ったか?」云々のくだりがあったが、権太楼はただ「3年経った大晦日の晩でございます」とだけ言い、登場人物は夫婦2人だけ。これも談志と同じだ。
3年間だまされていたと知った熊の「あのとき俺がどういう気持ちだったか、わかるか ……? 男がな、自分で自分が嫌になって、自分を殺したいと思った情けねぇ気持ちが、お前にわかるか!? 今日の今日まで、俺を見てきただろ? 女房って、そんなものか !?」と激高する熊、泣きながらすべてを打ち明ける女房。
この噺の大きなポイントは「届けたお金が半年経って『落とし主不明』でお上から戻ってきたけれども、元の木阿弥になるのが怖くて女房がずっと言い出せなかった」ということ。その後ろめたさが頂点に達してすべてを吐露するのがこの3年後の大晦日の場面だ。