一故人

日野原重明—「上手に不摂生」で100歳を超える

人間ドックやホスピスなど新しい医療のかたちに取り組み、『生きかた上手』など多くの著書がある、聖路加国際病院名誉院長・日野原重明。彼の105年の生涯は、いかなるものだったのでしょうか。今回の「一故人」は、その人生の転機などを確認しながら、医療に生涯を捧げた人物像を描きだします。

人生を大きく変えたハイジャック体験

1970年3月31日、羽田発福岡行きの日本航空の旅客機「よど号」が、「共産主義者同盟赤軍派」を名乗る9人の青年たちに乗っ取られた。日本初のハイジャック事件の発生である。犯人たちはコクピットに日本刀を持って侵入すると、北朝鮮に飛ぶよう要求した。機長は十分な燃料がないと説得し(実際には予備燃料があったというが)、給油のため福岡空港に一旦着陸する。ここで乗客のうち女性と子供、高齢者が降ろされた。このあと、よど号は、犯人らの要求どおり北朝鮮の平壌に向かう。

出発してから、犯人グループのひとりが「平壌まで2時間半ぐらい時間があるから、希望者に読書を許す」と言って、持参した本のタイトルを読み上げた。そこには赤軍派の機関紙や共産主義思想に関する本に交じって、いくつか文学書も含まれていた。このうち最後に名の挙がったドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』を所望した者がいた。福岡での学会に出席するため同機に乗り合わせた医師の日野原重明(2017年7月18日没、105歳)である。日野原は当時58歳、東京の聖路加国際病院の内科医長を務めていた。

全5巻の文庫本を膝の上に置かれたとき、日野原は、これでひと月拘禁されても我慢できると思ったという。さらに本を開くと、「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにてあらん、もし死なば、多くの実を結ぶべし」というヨハネ福音書からの引用が目に飛びこんできた。死ぬようなことが起こるかもしれないが、それによって多くの実が結ばれるのであれば死んでもいいのではないか—という意味のその言葉に心が落ち着いたと、彼は後年振り返っている。

よど号は管制塔の指示により、北緯38度線付近で機体を左へ大きく旋回すると、やがて着陸する。しかしそこは平壌ではなく、韓国の金浦空港であった。韓国側は空港を平壌空港にカモフラージュしていたが、やがて犯人たちはそれを見破り、激高する。事態はたちまち緊迫し、日野原ら乗客は3日間、機内に拘禁された。この間、室温が40度にまで上がるなか、体調を崩す乗客があいつぎ、日野原は同行していた東大医学部の教授とともに診察にあたった。

4月3日、犯人グループとの交渉の末、日本から駆けつけた運輸政務次官の山村新治郎が乗客の身代わりとなって、北朝鮮に飛ぶことになる。日野原たちはようやく解放された。このとき、彼は金浦空港の地面を踏んだ瞬間、「ああ、地球に還って来たなあ」と、自分が生きていることを実感したという。それと同時に、「この命は『与えられた命』である」との思いが湧いてきた。

都内の自宅に帰ると、100束を超える見舞いの花があふれていた。そのお礼状に日野原は《許された第二の人生が多少なりとも、自分以外のことのために捧げられればと、願ってやみません》としたためている(『AERA』2002年9月16日号)。還暦を前にしてよど号事件に遭遇したことは、彼の人生を大きく変えたのだ。

人生観が一変したあと、日野原は何をなしたのか? それを見る前に、その前半生を振り返っておこう。

「自分は日本で一番、死亡診断者を書いた医者だ」

日野原重明は、1911年10月、山口県に生まれた。元号でいえば明治44年、明治が終わる前年のことだ。父親は牧師で、のちに日野原も受洗し、クリスチャンとなる。父の転任にともない一家は大分、神戸と移り住んだ。神戸時代、尿毒症を患った母親を助けてくれた家庭医に、日野原は尊敬の念を抱く。そこから医師になりたいとの思いが芽生えた。

1932年、京都の第三高等学校(三高)から京都帝国大学(現・京都大学)の医学部に入学。在学中、肺結核と湿性胸膜炎にかかり、一時は医師になることを断念しかけた。しかし実家の移っていた広島で1年の療養生活を経て復学。1937年に卒業すると、医師免許が与えられた(当時は医師国家試験がなく、医学部を卒業すると免許が得られた)。京大病院の内科で2年間の無給副手を務めたのち、大学院で心臓の研究をする。2年で論文を提出し、京大に残ろうとしたものの、それは狭き門だった。ちょうどそのころ、父の知人を介して、東京の聖路加国際病院が若い心臓専門医を探していることを知る。

日野原の東京行きに、周囲からは「医者の世界は箱根を越えたら東大閥だ。京大卒の君が行っても苦労するだけだぞ」と止める声があいついだが、彼はこれを振り切って聖路加に移った。1941年8月、太平洋戦争開戦の4ヵ月前のことだ。学生時代の病歴から召集を免れた彼は、戦時中も病院で働いた。

聖路加は、キリスト教系の病院であることから米軍の空襲を受けなかったとされる。しかし病院周辺は、1945年3月の東京大空襲で大きな被害を受け、重傷を負った人々が次々と担ぎこまれた。ベッドはすぐに満杯となり、日野原はチャペルの床や廊下に患者を寝かせた。しかし、満足に治療する道具も薬もなく、ほとんどなすすべはなかった。後年、日野原は《私はね、日本で一番たくさん死亡診断書を書いた医者ではないかと思うのです。目の前で死んでいく患者さんたちに、十分な治療をしてあげられない。医者として無力感を抱いていました》と語っている(『日経ビジネス』2015年11月30日号)。

敗戦後、聖路加は連合軍に接収され、米国陸軍病院となった。300名の職員は一旦解散し、その5分の1ほどが陸軍病院に再雇用される一方、日野原は聖路加近くの東京都の病院を借りて診療を始めた。病院は接収されたが、特別な許可を得て、院内に設けられたメディカル・ライブラリーでアメリカの文献を読み漁る。このとき、アメリカ臨床医学の基礎をつくった内科医ウィリアム・オスラー(1849~1919)についても知った。「医師に大切なのは、知識だけでなく、患者の人生を理解し、患者と交流できる感性だ」と説くオスラーに、日野原は深い感銘を受け、人生の指針とするにいたる。

その後、1951年、聖路加に内科医長として復帰した日野原は、39歳にしてアメリカに留学する。そこで臨床医学の現場を目の当たりにして、日本の医療が20年は遅れていると痛感した。帰国後は、臨床能力の向上のため、医療教育に熱を入れるようになる。

1967年、卒後1年の研修を経て国家試験を受けるインターン制度が廃止された。日野原はこれに対し、優秀な指導者のもとで研修を受けずして、いい医療ができるわけがないと真っ向から反対した。研修医制度を義務づける法律が成立するにはそれから四半世紀を要したが、日野原は聖路加で独自にこの制度の充実を図り、日本の医療教育をリードすることになる。

こうした実績から、医療行政においても日野原は強い影響力を持った。文部省(現・文部科学省)の医学視学および看護視学委員を長らく務め、厚生省(現・厚生労働省)の各種審議会にもかかわっている。しかし当時を知る関係者のなかには、このころの日野原は後年のイメージとは異なり、かなり強引で、独裁的だったとの指摘もある(『AREA』前掲号)。ただ、そうでもなければ、官僚や政治家などと真っ向から闘い、制度そのものを変えることはできなかったのではないか。

大物たちを味方につけながら理想を実現

しかし、そうした日野原の姿勢もしだいに変わっていく。そこにはやはりよど号事件の体験が大きく影響していた。事件をきっかけに、内科医や研究者としての名声を求める生き方をきっぱりやめた日野原は、1973年、「予防医療」の考えを広めるため、「財団法人ライフ・プランニング・センター」を設立し、自らその理事長に就任する。聖路加の院長代理を務めながらのボランティア事業だった。

「病気を治す」以前に「病気にならないこと」を旨とする予防医療は、日本では終戦からまもなくして、聖路加国際病院の橋本寛敏と、国立東京第一病院(現・国立国際医療研究センター)の坂口康蔵の両院長が提唱して端緒についた。1954年7月には、国立東京第一病院が、坂口の発案により「短期入院総合精密身体検査」を、医長の小山善之の担当のもと導入する。これをあるジャーナリストが、船を点検・修理するドックになぞらえて「人間ドック」と名づけた。同年9月には、聖路加にも人間ドックが設置され、以後、しだいに全国に広がっていく。日野原は小山と組んで、人間ドックを健康保険の対象にするべく奔走、実現させている。

予防医療の普及のためにも、政官財界などの有力者と関係を持つことは欠かせなかった。1967年には、日野原も参加する日本キリスト者医科連盟が「国際予防医療センター(IPC)」を設立。このIPCでの活動が、日本船舶振興会(現・日本財団)会長の笹川良一との縁をもたらす。72年夏にIPCの研修会が箱根で開かれた際、当地で急病となった笹川を、たまたま日野原が頼まれて往診したのだ。以来、笹川の主治医も務めることになった。

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

elba_isola |近藤正高 @donkou |一故人 懐かしい 2年弱前 replyretweetfavorite

_8691937728433 ううん何だろう、とても真剣にガツガツ働いているのに、全体に穏やかさを感じる。医療だからなのは勿論、自分の意志で自分のしたい事をしていたからかな。 2年弱前 replyretweetfavorite

Neishan48 通りいっぺんじゃない、深い思想とそれを解きほどく作業。  2年弱前 replyretweetfavorite