「なんでやねん……」
僕は、おとといの朝、カーテンから薄明りの入るベッドの上で、印鑑と通帳を握りしめ、心の底からそう呟いた。
NHKの木曜時代劇『ちかえもん』で、近松門左衛門の役を演じ始めて2か月になる。近松は関西の人なので、がぜん、関西弁を特訓し、そして、今も関西弁と戦っている。とにかく難しい。元々が九州弁を喋っていた人間なので、ときどき、せっかく覚えた関西弁を九州が邪魔してくるのである。「~しよる」なんて言葉は関西でも九州でも使うが、それに油断していると九州特有の「~しちょる」が顔を出してきたりする。少し似たなまりを持っているがゆえ、逆にやっかいなのだ。
それでも、「なんでやねん」なんて言葉は、口触りがよく、ときどき不意に口をつく。「なんでやねん(笑)」。半笑いで言うとき。「なんっでやねん!」。半怒りで言うとき。エセ関西弁を使うと、言葉の当たりが「半」になり、風当たりがやわらぐ。やわらぐので、妻も真似して「なにが、なんでやねん、やねん」と返す。
東京の夫婦が二人して関西弁を喋っているというおかしな事態になって来た。
しかし、おとといは本域の「なんでやねん……」が出た。本域の「なんでやねん……」は、真っ暗な虚無的空間に投げ込まれた、ため息の塊のように思えた。
姉から、速達で郵便物が届いた。
姉は、九州に住んでおり、同じく九州のグループホームに入った要介護5の母親の世話をずっとして来た。松尾家は、3人兄弟だが、兄は15年前に45歳で借金にまみれたあげく死んでいるし、僕は東京でないと働けないし、それ以来、姉が母の面倒を見るしかなかったのだ。ちなみに姉はシングルマザー。女手ひとつで母を介護しながら2人の息子を成人させた。見上げた人だな、と、つくづく思っていた。僕は、そんな姉に、母親のもらう年金では足りない分のホーム代や、諸経費を送ることしかできなかった。
それが、10年ほど続いた。姉も大変だったろうが、毎月まとまったお金を送り続けるのも難儀だった。僕は、とにかく働くしかなかった。働くことしかできなかったのがもどかしかった。
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