いきなりなのだけれど、私は、2度、人が亡くなる瞬間を見たことがある。
一人目は、全く見ず知らずの人だった。もう二十年近くも前、突然、全身に蕁麻疹(じんましん)ができた。呼吸も苦しく、大学病院の救急外来を訪れた。その日は処置室がとても混んでいたため、私は廊下のベンチに座って点滴を受けることになった。
シーンと静まり返った夜の病院の廊下で、腕に針をさしながらボーッと座っていると、急に辺りが慌ただしくなって、正面の自動ドアが開いた。たった今到着した救急車から、初老の男性が乗ったストレッチャーが降ろされる。荒い息をしている男性の胸が、上下に大きく動いている。一緒に降りて来た付き添いの妻と娘が、懸命に声を掛けている。「お父さん! 病院に着いたよ、頑張って」「お母さんも私も、ここにいるからね!」
その時、男性の胸の動きが止まったように見えた。医師や看護師が飛んで来る。「呼吸が停止した」というようなことを救急隊員が報告している。ものすごい勢いで、みんながその場から処置室へと去って行く。
再びシーンと静まり返った廊下で、私はひとり、まるで取り残されたようにそこにいた。終わるのに1時間はかかると言われた点滴の残りが半分ぐらいになった頃、先ほどの男性の付き添いの妻が、呆然としながらこちらに歩いて来た。そして、ベンチのすぐ近くにある公衆電話から電話を掛け始めた。
「あ、もしもし? 今、病院にいるの。お父さん倒れて運ばれて……ううん、病院に着いて死んじゃったのよ、すぐに。今よ、ほんのちょっと前」妻は思いのほか冷静に、というよりまだ実感がわかないのだろう。普段の喋り方もこんな感じなのかなと想像できる口調で話をしていた。
電話の相手は、離れたところに住む息子のようだ。「まあとにかくまた電話するから、おじさんやおばさんに連絡して。まだお母さん病院で、これから色々話さなきゃならないこともあるから」しばし話をしたあと、そう言って電話を切った。そして私に気がつくと、「ごめんなさいね……」と呟いた。私は首を横に振るのが精一杯だった。
亡くなる瞬間を見た二人目は、私のおじいちゃんだった。2010年の9月末、福島県いわき市に住む88歳の母方の祖父が倒れたと連絡が入った。
おじいちゃんは、とても背が高くて体が大きくて、山が大好きな人だった。「山に行くと気持ちがスーッとする」といつも言っていた。その、大好きな山の帰りに、いつも通っていた温泉風呂に行き、いつものように風呂上がりにロビーで牛乳を飲んで、スーッと倒れたらしい。私は絶対に死なないと思っていた。倒れたと言っても意識があると聞いていたし、なんとなく、おじいちゃんにこういう死に方は似合わないと思っていたのだ。
私が知っているだけで、おじいちゃんは2度、死んでもおかしくない状況があった。一度目は、十数年前の母の日。母へのプレゼントがなかなか思い浮かばず、とりあえず母が喜ぶことをしようと、「今からおじいちゃんのうちに行こうよ」と、母を誘った。突然の提案に驚きながらも、母もきっと会いたかったのだろう、昼には一緒にスーパーひたち号に乗っていた。
「驚くかな」「驚くだろうね」「喜ぶかな」「喜ぶだろうね」などと、おじいちゃんの顔を思い浮かべながら到着した。「おじいちゃーん! 遊びに来たよー」と居間のドアを開けると、おじいちゃんが倒れていた。心臓が飛び出すんじゃないかというくらい驚いた。息をしていることを確認し、救急車を呼んだ。