早稲田を目指す女子に告白するも瞬殺される

夏が終わりに近づくにつれ、小森谷くんは受験生としての自覚を持つようになった。バイトもやめ、勉強の面白さに気づいた彼は、本格的に勉強漬けの日々を送る。そんななか、早稲田を目指す理系女子に恋をする小森谷くんだが、今はそれどころではないと、告白を一瞬で断られてしまう。
末期がんを宣告された男性の❝ありそうでなかった❞半生を描いた、『小森谷くんが決めたこと』を特別掲載!

 おれらはそろそろ本気ださなきゃ駄目だろ──。

 土岸の指摘によって、彼が急に姿勢を正したわけではない。ただ夏が進むとともに、さすがに彼の受験生としての意識は背筋を伸ばしていった。

 それはちょうど類人猿が、猿人、ホモサピエンス、と進化していくさまに似ていたかもしれない。

 八月の終わり頃、ようやく彼はバイトを辞めた。

 シルバー・アルバイトになった籍はそのままにしておいてもらえたので、大学に合格したらすぐに復帰しようと思っていた。

 そのことも小さなモチベーションにして、彼は勉強をしようと誓った。

 三年間のおサルさん生活で彼の脳は蕩けきっていた。だけど偉いもので、この数ヶ月、朝起きて予備校に通ったことによって、少しずつ脳が固まり始めていた。

 浪人した仲間たちからは周回遅れだったが、彼はようやく主体的に勉強をするようになった。

 興味を持ってやってみると、勉強はなかなか面白かった。

 予備校の講師が工夫をこらした授業は、ちょっとしたショーを見ているようだった。元ヤンキーの吉野先生を始めとしたカリスマ講師の話はわかりやすく、聴き終える

と、自分の頭が良くなったように思える。

 中でも感動したのは物理の授業だ。現象→数式→理論→応用と、思考を進めていくのは、スリリングでロマンチックだった。

 身の回りの世界を支配しているのが、“法則”だということに彼は痺れていた。

 代々木の予備校の教室の中で、なるほど、そうだったのか、と、彼は世界を新しく感じる。

 物理に夢中になった彼は、物理の成績だけをぐんぐんと伸ばした。

 何ごともハマると、とことんハマるという彼の性質が、帆を張った舟に風を吹かせるようだった。

 今まで何となくカッコいいからという理由で建築学科志望だったのだが、物理学科を目指すことにした。

 特に宇宙物理に興味があった。将来は研究職につけたらいいな、そんな夢まで彼は見るようになる。

 ようやく浪人生が板についてきた彼は、他の科目でも少しずつ、まともな偏差値をマークするようになった。

 東工大はさすがに無理な感じだったが、私立の理工系大学のどこかに狙いを定めることにして、彼は勉強漬けの毎日を送った。

「化学のノート、コピーさせてもらっていい?」

「いいよー」

 私立理系クラスにいたその女の子は、いつも丁寧にノートをとっていた。

 地味で色白で目が大きくて、丸顔の女の子だった。彼女の化学のノートは、その年、代々木で一番きれいだった。

 ノートを何度か借りているうちに、彼と彼女は少し仲良くなっていった。彼女は早稲田の理工を目指しているらしい。

「化学は得意なんだけど、物理が苦手なんだよね」

 早稲田は理科を二科目受けなければならない。彼女は数学も英語もできて化学も得意だったが、物理だけは苦手らしい。

「逆っていうか、おれがまともなのは物理だけだよ」

「えー、でもいいじゃん。今度、物理教えてよ」

 一度か二度のことだったが、彼は物理の問題の解法を彼女に教えた。苦手といっても彼女の物理の成績は、彼とそう変わらなかった。

(早稲田か……)

 部屋で一人、彼女のノートを見つめた。そこには有機化合物の反応系統図が、とてもきれいに書いてある。

 C2H5OHと書かれた文字は伸びやかで、純化合物のように純粋で混じりけがない。

(化学、か……)

 ノートに描かれた分子モデルを見つめた。早稲田は“一応化学の授業も取っています”というレベルの彼には、遠い志望校だ。

(早稲田……)

 ノートの文字は太くも細くもなく、濃くも薄くもなかった。

 彼女が生みだすそれは、シンプルで無駄がなく、有機的で、美しい。それを見つめていると、彼女がとても清らかな魂の持ち主であるように思えてくる。

 ある日、彼は発作的に宣言した。そのときもう、彼女のことを好きになっていた。

「おれ、早稲田受けるよ」

「え!? そうなんだ!」

 彼女は目を丸くして驚いた。

 彼女は心の底から“無理だ”と思ってそれを顔に出してしまったのだが、彼にはそういうニュアンスを読み取る能力がなかった。

「今のままじゃダメかもだけど、おれ、勉強、頑張るよ」

「うん……頑張ろうね」

 二人で一緒に早稲田を目指して、二人で一緒に受かればいいな、と彼は思った。

 二人でキャンパスに通えたら、素敵だな。今はかなり地味な彼女だけど、大学に行くころにはオシャレになっているだろう、と、何故だか彼は上から目線だった。

 秋、越前ガニの漁が解禁され、ボジョレー・ヌーボーも解禁された。

 彼は突然、驚きの行動にでた。ある日、自分の中に熱風が巻き起こり、その風の赴くままに何かを解禁したのだ。

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余命2か月といわれた男—小森谷くんが決めたこと

中村航

僕、余命2ヶ月って言われたんですよ。でも、生き残っちゃいましたけど――。末期がんを宣告された30代男性の“ありそうでなかった”半生を、「100回泣くこと」の著者・中村航が小説化!

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