六月、晩春と初夏が、モアレ模様のように混在していた。
ケジメをつけて前へ進もうとする土岸とは違って、小森谷くんの脳は相変わらず蕩けていた。
毎日、予備校には通うものの、漫然と授業をやり過ごし、アルバイトだけを熱心にこなす日々が続く。
七月になった日、できたてピザをお届けしていた彼は、驚愕の事実に遭遇した。
配達先に同級生の女子がいたのだけど、彼女の名字と、届け先の名字が違っていた。それだけならそんなに驚かないのだけれど、何と彼女は妊娠していた。
どうして? いつから? 可能なのか?
頭の中に謎が駈け巡ったが、彼はのそのそとピザを渡すだけだった。教室では見せなかった笑顔で、彼女が小森谷くんに話しかけてくる。
何でも相手の会社員と、もうすぐ結婚式を挙げるらしかった。
おめでとう、とか何とか、もごもご言いながら、彼女から代金を受け取った。腰につけたポーチを探り、おつりを取りだす。
「いやあー、ビビったよ」
翌日の朝、いつものように土岸と一緒に電車に乗り込み、彼は話の口火を切った。
「お前、石嶺さんって覚えてるだろ?」
クラスでもあまり目立たなかった石嶺さんの驚愕の事実について、彼は細かく土岸に報告した。
「マジか!」
土岸は驚いた顔をした。
大人しくて真面目そうだった石嶺さんのことについて、二人はそれから、ひとしきり話した。事件! と驚くようなことは、いつだって普通っぽい人が起こす。
「うーん、そうか。みんないろいろだな」
「ああ、驚いたよ」
オレンジ色の電車が、東小金井を過ぎたあたりだった。
「だけど、モリ、それはいいんだけどさ」
「なに?」
「んー、まあ、いいけど」
「なんだよ」
土岸が窓の外に目をやったので、彼も口をつぐむ格好になった。電車が武蔵境に着いても、土岸は口を開かなかった。
「あのさ、」
しばらくして、土岸はようやく口を開いた。
「お前さ、いつまでバイトやってんの?」
「……ああ」
と、彼は声をだした。
確かに今バイトを辞めても、生活に困るわけではなかった。勉強に集中するためには、バイトを辞めたほうがいいのはわかりきったことだ。
ただその頃の彼にとってピザの宅配バイトは、単なるお金を稼ぐための手段ではなかった。
仕事を覚えていくのが楽しかったし、チームで働くのも楽しかった。一日の中で一番充実した時間だった。
バイト先には昇進制度みたいなものがあった。同じアルバイトのスタッフでも、青銅、白銀、黄金と、女神を護る聖闘士のように、職位が三つに分かれている。
彼はまだブロンズ・アルバイトだったが、次にシルバーになるのは彼だと噂されている。
「今のバイト、気にいってるんだよな」
「知ってるよ、そんなことは」
土岸は声を強くした。
「だけど、おれらはそろそろ本気ださなきゃ駄目だろ。お前の母さんのこととか考えてみろよ」
「……ああ」
親に負担や迷惑をかけていることを思えば、確かに焦るような気にはなった。
「お前には仁義がないんだよ」
「………」
何も言い返せない小森谷くんの胸に、仁義という言葉が突き刺さった。
電車は吉祥寺を過ぎ、西荻窪に向けて走りだす。
仁義。お前には仁義がない……。
その日、彼の頭の中で、久しぶりに聞いたその言葉がずっと跳ね回っていた。
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