はじめに
皆さん初めまして。向清太朗と申します。『天津』というコンビでボケをやっています。相方は『エロ詩吟』で有名な天津・木村といえば、ピンと来る人も多いのではないでしょうか。
そんな僕ですが、2016年4月にとある関西の番組で年収を暴露されて、それがネットニュースになり、ちょっとした話題になりました。
その額、800万円。
普通に考えたら別にとんでもない額を稼いでいる訳ではありません。芸人の世界、もっといえば芸能界という世界は、スターになれば年収1億2億なんて当たり前と聞きます。でも僕の収入に皆驚いたから、それが話題になってネットニュースで取り上げてもらったんだと思います。ちなみに、ネットでの声のほとんどがこうでした。
「なんで向は売れてないのに、そんなに稼いでいるんだ?」
まあ、そう思いますよね。決して高い額ではないですが、安くもない額です。僕は三十七歳なのですが、その年の平均年収を調べると男性は511万円だそうです。平均と比べても300万円以上多くもらっている計算になります。
その額がネットニュースになってからよく聞かれるのは「年収800万円って本当なの?」という質問です。僕はその質問をされると、いつも苦笑いではぐらかします。そもそも年収の話なんてナイーブな話題ですから。
でも、どうしてもということであれば、その質問にはこう答えます。
「本当ではありません」
「じゃあ嘘をついてテレビに出たのか!」であるとか「やっぱりそんなに稼いでいる訳がないんだ!」と言われる方。そうじゃないんです。
僕のこのときの年収は、870万円なのです。
はい、発表されているより少しだけ多いんです。おそらく、800万で区切った方が分かりやすいという、テレビのスタッフさんの配慮だと思います。
では逆に、僕からも質問させてください。
「僕、年収800万円いってそうですか?」
おそらくほとんどの方が「いってなさそう」と答えるはずです。そりゃそうです。テレビにも出ていないし、普段どんな感じの仕事をしているのか想像つかないと思います。そもそも、いってなさそうなのに800万円ということでニュースになっているわけですから。
その年収を暴露された番組に出た時言われたのは『アニメ系のお仕事で儲けているから』。
はい、間違いありません。
だけどこの情報には少し尾ひれが付いてまして、今では「アニメ系の仕事だけで800万円稼いでいる」という話になっています。いえ、そんなことはありません。アニメの仕事だけではなく、コンビである『天津』で漫才もさせてもらっていますし(まだコンビで漫才をやっているんだ、ということにびっくりする方も多いです)、デパートや会館で行う漫才の仕事、つまり『営業』などもありがたいことに行かせて頂いています。おそらくアニメ系のお仕事と、漫才の収入でいうと、今は半々くらいではないでしょうか。
つまり漫才という本業もやりながら、アニメ系の仕事でも稼いでいるという形になります。
じゃあどういう経緯でこの年収を稼げるようになったのか。
これから、赤裸々に書かせてもらいます。
まずは、収入の半分を占める僕らのコンビ『天津』のことから話を始めます。
天津
僕と木村くんは、大阪吉本のNSC(ニュースタークリエイション)という養成所で出会いました。僕は広島から出て来た18歳、木村くんは大学4年で入ってきた21歳の時です。
木村くんは、クラス全員の前で自己紹介する時に「木村です。姫路出身です。好きな城は彦根城です」と言って「いや姫路城ちゃうんかい」と笑いを取っていました。それを見て、面白い人だなあ、というのが第一印象です(あとで聞きますと単純に彦根城が本当に好きなだけだったらしいのですが)。ああいう面白い人とコンビ組めたらいいな、なんてことを漠然とは思っていたのですが、当時のクラスは明るい人気者タイプと、暗いけど面白いことを考えるハガキ職人タイプの二チームがあり、木村くんは人気者グループ、僕は暗いグループにいましたので全く接点がなく、喋ることもありませんでした。
そしてお互い別のコンビでやっていたのですが、11月に木村くんが養成所をやめて地元に戻るという噂を聞きました。僕は勿体ないなあ、と思ったものの、声をかける勇気がなかったので、一緒に組もうなんてことは言えませんでした。
しかしその直後、僕は友達の行っていた大学の文化祭でやっていた吉本のお笑いライブを見ました。その時はジャリズムさん、サバンナさん、矢野・兵動さんなどそうそうたるメンバーが漫才をやっていて、それを見た時やっぱりお笑いっていいな、やるんだったら絶対に漫才だな、と思いました。漫才をやるには相方が必要だ。じゃあその相方は一体誰だ。考えるが先か、僕は木村くんに連絡を取りました。
「もしもし向です」
「ああ、同じクラスの……どうした?」
「もうやめるって聞いて。ほんまにやめるん?」
「やめるよ。地元に帰ってパン屋をやろうと思ってんねん。ほら、パンとお笑い、どっちもお客さんを喜ばすって意味なら一緒やん」
それはおそらくどの職業もそうじゃないかなあ、と思いました。
「俺はやめる。お前は続ける。俺はマンモス西。お前はジョーや」
『あしたのジョー』でのたとえが入りました。
「だからお前は……『リングにかけろ』!!」
まさかの違うボクシング漫画のタイトルが出て来ました。僕は思いました。
こんな面白い人と、絶対に組まないと。
そこから僕は、やめるにしても一回話だけしようと熱烈アプローチをしました。折れる形で木村くんは「じゃあ一度だけな」と集まった日がクリスマス。多くのカップルがいる店内で男二人が「一緒にやろう」と手を取り合っている様は、いろんな物議を醸し出したことでしょう。
僕が「卒業まで! 卒業までやろう!」と口説いたおかげか、木村くんにも未練があったのか、もう少しお笑いをやると決めた木村くんのおかげで、天津は結成されました。
僕ら天津は、もともと大阪で漫才をやっていまして、若い時は『baseよしもと』という劇場で、先輩の笑い飯さん、麒麟さん、アジアンさん、同期の千鳥、レギュラーなどとネタやトークコーナーでしのぎを削っていました。
そこで僕らはがむしゃらに漫才やコントをやっていたのですが、やってもやっても評価がついてこない。周りの芸人さんはM‐1グランプリの決勝進出など、結果を出していて、どんどん全国区のテレビに出演しはじめます。スタッフさんや支配人から「うーん、天津はおもろいねんけどな、なんか売れてないよな」という言葉をとにかく言われていた時期でした。
そうこうしていますと、気付けばもう若手と言われる年数を越えていて、その劇場を卒業することになり、もっと上の先輩方が出演される『うめだ花月』という劇場に移動します。そこは若手の劇場と違い、漫才、コントなどの実力がある先輩だらけでした。若手というタグをなくしてしまった僕らは、そんな魑魅魍魎の集まる劇場でどんどんかすんでいってしまいました。
コンビというのは、良い方に進んでいる時は仲が良いんです。もしくは共通の敵が居るときなども「あいつを倒すぞ」という意思を統一出来るので仲が良くなったりするんです。しかしこの時の天津は、置かれた現状に閉塞感を感じ、共通の敵だったものがなくなっていました。僕は「こいつのせいで売れないんだ」と、相方に対する不満がどんどんたまってきてしまいました。
まあ、今考えたら大馬鹿です。だって、敵は相方の訳がないですから。それを見間違えた時点で、僕が迷走するのは自明の理でした。
しかし、当時の僕はそれに気付けるくらい頭が良くなかった。というか、当たり前のことを把握出来てなかった。当時の木村くんは『エロ詩吟』もしてなく、僕の方がまだ一人の仕事の依頼が多かったので、心の中で「木村くんさえもっとちゃんとしてくれたら」とイライラしていました。
売れていく周りの芸人さん。M‐1グランプリで決勝に残った麒麟さん、笑い飯さん、アジアンさん、千鳥、南海キャンディーズ……それを横目で見ながら、頑張ってネタをたくさん作ってみても準決勝止まりで、決勝までは届かない。自分の中で最高のネタを作っているつもりなのに認められない、というストレスがどんどんたまっていきました。
先輩に相談してみても「なんか足りないんよな、天津のネタは」とアバウトな感想を言われて、それが何のことを言われているかも分からず、その足りない部分は相方なんだ、と勝手に思っていたりしました。
そんなイライラを持ったまま日々を過ごしていたら、仕事も上手い事いく訳がありません。
ある日、僕らはネタ合わせをしていました。僕らのネタ合わせは、僕が台本のベースを作り、二人で話し合いながら作っていくことが多いので、会話がずっと続くのが基本です。しかし、この日は無言が続きました。
なぜなら僕はその時、解散を告げようと考えていたからです。
どう切りだそう。そう思っていた時に木村くんが口を開きます。
「向。なんやねんさっきから。言いたいことあるなら言えや」
さすがはコンビといったところでしょうか。この空気、木村くんも何を切り出すか気付いているんだな。僕は意を決しました。
「……このままやっても先が見えない。次のM‐1で、決勝に残らなかったら解散しよう」
「…………えーっ!?」
木村くんはむちゃくちゃビックリしていました。そのビックリにこっちも同じくらいビックリしました。いや、解散のこと切り出しそうな雰囲気に気付いてたんちゃうんかい! 気付いてなくてあの誘導やったんかい! というか、じゃあ何を言うと思っててん!
なんてことを思いつつも、この時にバシッと『M‐1決勝行かなかったら解散宣言』をして、木村くんも最終的には頷いてくれました。
そこから僕らはM‐1に向けて頑張りました。とにかく決勝に残らないといけない。そう思って、無心で頑張りました。いろんな漫才ライブ、新ネタを試しては捨てて、試しては捨てての繰り返し。そういう意味ではM‐1決勝という共通の敵が出来てからは、前よりコンビ間の仲は良くなったように思います。
そして訪れたM‐1準決勝。
結果は……敗退。不思議とその時、悔しさはなかったです。終わったんだなという感覚。僕は経験ないので分からないですが、学生時代に部活をやっていたらこんな感じなのかな、と思ったのを覚えてます。
決勝進出者の発表が終わってから、準決勝が行われたNGK(なんばグランド花月)のロビーで、二人で集まりました。集まったはいいけどどちらも口を開かない。ずっと続く無言の時間はおそらく10分も経ってないくらいだとは思うのですが、ただただ永遠の長さのように感じました。
しかし、言わないと。そう決めていたんだから。
「言ってた通り、解散しよう」
僕が切り出しました。自分が言い出した解散です。そりゃそうです。僕が言わないと。この言葉を言う時に、声が震えた覚えがあります。
「…………いや、もうちょっとやろう」
「…………えーっ!?」
木村くんの発した台詞に、僕はビックリしました。解散を切り出された時の木村くんと全く同じボリュームでびっくりしました。いやいや、ダメだったら解散って言ってたやん。なんで急に、もうちょっとやるってなるんだ? あれだけ覚悟決めてやってたのに! どういうこと?
「今回が天津としてM‐1のラストイヤーなら分かる。でも来年もM‐1出られるやん。来年までやってあかんかったら解散しようや」
確かに僕らはこの時9年目。当時のM‐1グランプリの出場資格は10年目までの漫才コンビ。つまり翌年、あと一回出られるんです。
「今までコンビでずっと漫才やってきて、M‐1というでっかいチャンスもう1回あるのに、それを逃さない方がええやろ」
確かにそれは一理ありました。あと一年あるから、思いっきりやりきって終わらないと嘘じゃないか。
だけど、それって可能なのか? この1年、踏ん張って頑張ってネタ作りをやって決勝に残れなかったのに、来年同じことをやっても一緒の結果になるんじゃないか? それに、いったん解散しようと思っていたのに、切れた気持ちを戻すことは可能なのか? それなのにもう1年続けてやるべきなのか? 本当に解散でいいのか? ピン芸人をやるのか? コンビを組むのか? それも決めてない今、解散したって仕方ないんじゃないか?
結局何も決められてない僕が取った行動は、選択を先伸ばしにするという行為。ただの時間稼ぎです。
「……分かった。そうしよう」
僕は選択を木村くんに委ねるような感覚で、もう一年天津をやることにしました。