「他の子はちゃんと出来てるでしょう? どうしてあなただけ、そんなにダメなの? 恥ずかしい。」
母の声が聞こえた。
「立ってなさい、ずっとそこで。帰って来なくていいから。」
彼女は、自分が取り返しのつかない恐慌に呑まれつつあるのを感じた。バタンと思いきり倒れ込めば、その拍子に金縛りが解けるかもしれない。恐怖心を捨てて、闇雲に前か横かに体重をかければ。痛いけど、それでどうにか助かるかもしれない。どうにか、……
「大丈夫、千佳ちゃん?」
その手が肩を叩いた瞬間、千佳は、後ろを振り返った。動けた。……
立っていたのは、〈SWAN SONG〉と書かれた長袖のTシャツを着た、ディスカウント・ショップの秋吉だった。
「……こんにちは。すみません、ちょっと、ぼうっとしてて。……」
「大丈夫? 顔色悪いけど。」
「大丈夫です。配達ですか?」
「そう、ちょっとこっちの方に酒のね。」
千佳は、無理に明るい笑顔を作って、
「てっちゃん、ちゃんと働いてます?」と尋ねた。
「ああ、うん、がんばってるよ。まだ最初だから、アレだけど。」
「本当に、ありがとうございます。」
「いやいや、助かってるし。バイト代くらいしか出せなくて、申し訳ないけど。」
「とんでもないです。働かせてもらえるだけでも幸せです。」
秋吉は、腕時計に目を遣って、
「千佳ちゃん、お昼休みとかあるの?」と尋ねた。
「はい。あと、十五分くらいで。」
「ちょっといい? その辺でメシでも喰いながら。」
「え? あ、……はい。」
「じゃあ、そこのビルのレストラン街ででも。先に行ってるし、電話してもらえる?」
「わかりました。」
「じゃ、あとで。」
秋吉は、いつもと変わらない調子だったが、去り際には、どことなく彼女を安心させるような目で頷いてみせた。徹生が死んでからも、彼はよく、こんなふうに訪ねてきて、しばらく立ち話をしてから帰っていった。
自分が今、どこの時間にいるのか、彼女はまた、見失ってしまいそうになった。今この瞬間に、どこかで徹生が生きている。その実感が、急に薄らいでいった。また発作が起こった時、彼はどうやって、自分を助けてくれるのだろう? 結局、この三年間と同じじゃないだろうか。……
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