第三章 惑乱の渦中へ 9 不意打ち(後編)

徹生が生き返ってきたことに対して、戸惑いを隠せない千佳。そこへ近くのディスカウントショップ店長の秋吉が、心配して話を聞きに来てくれた。そこで話されたことが示唆することは……。平野啓一郎さんの小説『空白を満たしなさい』が、3章までの限定公開です。

「他の子はちゃんと出来てるでしょう? どうしてあなただけ、そんなにダメなの? 恥ずかしい。」

 母の声が聞こえた。

「立ってなさい、ずっとそこで。帰って来なくていいから。」

 彼女は、自分が取り返しのつかない恐慌に呑まれつつあるのを感じた。バタンと思いきり倒れ込めば、その拍子に金縛りが解けるかもしれない。恐怖心を捨てて、闇雲に前か横かに体重をかければ。痛いけど、それでどうにか助かるかもしれない。どうにか、……

「大丈夫、千佳ちゃん?」

 その手が肩を叩いた瞬間、千佳は、後ろを振り返った。動けた。……

 立っていたのは、〈SWAN SONG〉と書かれた長袖のTシャツを着た、ディスカウント・ショップの秋吉だった。

「……こんにちは。すみません、ちょっと、ぼうっとしてて。……」
「大丈夫? 顔色悪いけど。」
「大丈夫です。配達ですか?」
「そう、ちょっとこっちの方に酒のね。」

 千佳は、無理に明るい笑顔を作って、

「てっちゃん、ちゃんと働いてます?」と尋ねた。
「ああ、うん、がんばってるよ。まだ最初だから、アレだけど。」

「本当に、ありがとうございます。」
「いやいや、助かってるし。バイト代くらいしか出せなくて、申し訳ないけど。」

「とんでもないです。働かせてもらえるだけでも幸せです。」

 秋吉は、腕時計に目を遣って、
「千佳ちゃん、お昼休みとかあるの?」と尋ねた。
「はい。あと、十五分くらいで。」
「ちょっといい? その辺でメシでも喰いながら。」
「え? あ、……はい。」

「じゃあ、そこのビルのレストラン街ででも。先に行ってるし、電話してもらえる?」
「わかりました。」

「じゃ、あとで。」

 秋吉は、いつもと変わらない調子だったが、去り際には、どことなく彼女を安心させるような目で頷いてみせた。徹生が死んでからも、彼はよく、こんなふうに訪ねてきて、しばらく立ち話をしてから帰っていった。

 自分が今、どこの時間にいるのか、彼女はまた、見失ってしまいそうになった。今この瞬間に、どこかで徹生が生きている。その実感が、急に薄らいでいった。また発作が起こった時、彼はどうやって、自分を助けてくれるのだろう? 結局、この三年間と同じじゃないだろうか。……

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空白を満たしなさい

平野啓一郎

cakesでもインタビューを行った、平野啓一郎さんの小説『空白を満たしなさい』(講談社)が、3章までの限定公開です。年間約三万人の自殺者が出るこの国で、生と死、そして幸福の意味を問う意欲作。平野さんの考えた概念「分人」をまとめたcak...もっと読む

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コメント

mojin_syo_go こ、こんないいところで切るなんてッ!プロモーションうまいなぁ(乗せられてる感アリ) 5年弱前 replyretweetfavorite

hiranok cakesの試し読みの続きです。【 5年弱前 replyretweetfavorite