編集者、大丈夫なのか? それは一見、微妙な打ち合わせからはじまった

「中村さんに、男子の小説を書いてほしいんです」いつも茫漠とした表情をしている編集者は、珍しく情熱的に、打ち合わせで3回もそのセリフを繰り返した。男子の恋とか、友情とか、青春とか……。普通すぎる提案に驚くものの、そこで著者は「普通の男の人」を書いてみたいと思ったことを思い出す。
末期がんを宣告された男性の❝ありそうでなかった❞半生を描いた、『小森谷くんが決めたこと』を特別掲載!

「中村さんに、男子の小説を書いてほしいんです」

「男子の……小説?」

 コーヒーカップを置くと、かちゃり、と頼りない音がした。

 神保町の“さぼうる”という古い喫茶店で、背の高い編集者と打ちあわせをしていた。

 この人はいつも茫漠とした表情をしているが、二年に一度くらい、情熱的に語りだすことがあった。

「中村さんの描く男子の恋とかですね、男子の友情とか、夢とか、成長とか、家族とか、そういうものを、僕は読みたいんですよ」

 ふうむ、と頷く形になった。

 そんなふうに言われると、僕だって読んでみたいし、書いてもみたい。

 だが何というかアレだ。何だろう……、それって……

「普通じゃないですかね?」

「普通?」

 不可解だ、という表情を編集者はした。

 表情はやがて深刻そうなものに変化したが、また元に戻った。

「僕はですね、」

 思いきって告白します、聞いてください中村さん、という顔で彼は言った。

「中村さんの描く、男子の恋とか、友情とか、成長とか、夢とか、そういうものを読んでみたいんですよ」

「いや、それはさっきも聞きましたけどね、それって、ほとんど絞れてないじゃないですか」

「絞れてないとは?」

 どういうことでしょう、と、彼は僕の目を見る。

「だって、それはつまり、主人公が男子、ってことだけですよね?」

「……ええ。まあ、そうなんですかね」

「小説を二つに分けるとして、そのうち一つのほうを書いてください、って言ってるだけですよ。半分しか絞れてないですよ」

「そう、なのでしょうか……」

 考え込む仕草をする編集者に、僕は付け加えた。

「“男子トイレ”の“男子”って、年齢は関係ないですよね。多分、のび太くんも、スティーヴ・ジョブズも、男子じゃないですか。織田信長とか、モンキー・D・ルフィとか、宮尾くんも男子ですよね? 木戸さんや吉田くんも男子ですよね」

「あー、そうですねー。男子っていっても、いろいろいますからね」

 ふ、ウケる、という感じに彼は笑った。

「じゃあ男子って、何なんですかね?」

 結構マジに訊いてみた。

「んー、難しいですね」

「ちなみに、どういう男子の話が読みたいとか、そういうのはないんですか?」

「僕はですね、」

 編集者はその日一番の、真面目な顔をした。

「中村さんが描く男子の恋とか、友情とか、成長とか、情けなさとか、涙とか、そういうのを読んでみたいんです」

「……ですよね」

 受け入れろ、と、僕は思った。

同じ台詞が三回繰り返されたなら、それをそのまま受け入れるしかないのだ。

 喫茶さぼうるの店内は、洞窟のなかのように暗かった。

壁の煉瓦は大量の落書きに満ちていて、ところどころに有名人のサインがある。またこの店のピザトーストは、トーストのぶ厚さが尋常ではない。

「僕は中村さんに、男子の小説を書いてもらいたいんですよ」

 時代から取り残されたような素敵レトロな喫茶店で、止まったような時が、静かに流れ続けた。

コーヒーカップのふちをいじりながら、僕は考えを巡らせる。

 男子小説……。恋とか、友情とか、成長……。涙や、情けなさや……夢……。中村さんの描く男子……。しかしそこで描かれる男子とは、一体……。

「けど……あれですね」

 僕は編集者と目をあわせた。

「普通の男の人を書きたいな、って思ったことはありますね」

「普通……ですか?」

「ええ。普通の人の、普通の恋や、普通の友情とか、普通の成長とか、って普通に面白いと思うんですよね。そしてそれはきっと、ちょっと普通じゃないんですよ」

「ええ、そうですね。わかります」

 身を乗りだした編集者が、うんうんうん、と頷いた。

「そうですね。うん。いきましょう! 普通の男子の話でいきましょう!」

 編集者はいきなりノリノリな感じになった。

「いや、ただですね、」

 だが彼は何もわかっていないようだった。

“男子の小説”が、“普通の男子の小説”になったところで、まだ何も絞れていないのだ。

「普通って何ですかね? 普通って言ってもいろいろですよね?」

「そうなんですよ。普通って難しいんですよね」

 僕らは、うーん、と考えた。きっとクリリンも織田信長も、自分のことを普通だと思っているだろう。

 僕だって普通だし、目の前にいるこの人も、ときどきおかしなことを言う(プールにカツオを並べる光景を思い浮かべるとよく眠れる、とか)が、自分のことを普通だと思っているに違いない。

 例えばこの編集者の恋や友情や夢を描こう、とは全く思えなかった。またもちろん、モンキー・D・ルフィの成長や冒険を描くわけにもいかない。

「誰かに取材してみると、いいかもしれませんね」

「それは……無作為に選んだ誰か、ってことですか?」

「ええ、まあ、それに近い感じで」

 ほほう、と思った。その人の小説を書けるか書けないかはわからないけれど、話を聞くのは面白いかもしれない。

「いいかもしれないですね。初めて会う人に、いろんな質問をする。人生の取材みたいなことですね」

「面白くなるか、ならないか、どっちかですよね」

「そりゃそうでしょう」

 面白いかもしれないな、と思った。

 だけど全然、面白くないかもしれない。

 どっちにしても、ダイスを転がしてみないと、運命の往く先はわからない。

 編集者は手元の手帳に何かをメモし、それから、ちら、と腕時計を確認した。次の用事があるから、僕らは十六時にさぼうるを出なければならない。

「今、何時ですか?」

「十六時ですね」

「え、じゃあもう出ないと!」

「いや、僕の時計、五分進めてあるんです」

「え?」

 この人は一体、何を言っているのだろう、と思った。だったら、十五時五十五分、と答えるべきなんじゃないだろうか……。

「えーっと、ですね」

 と、僕は言った。

「五分進んだ時計とか、三分遅れた時計ってのは、決して正しい時刻を示すことはないんですよ。

 その時計は、永遠に間違った時刻を示し続けるんです。わかりますか?」

「ええ……」

 この人は、だいたいいつも茫漠とした表情をしていた。きっと頭の奥に荒涼とした場所があって、そこを霧で隠すように、漠としたものが取り巻いているのだろう。

「でもですね、」

 僕はこの人の目をじっと見た。

「壊れて動きを止めてしまった時計は、一日に二度、正しい時刻を示すんです」

「……はあ」

 僕とこの人は、いつか真実や優しさに辿り着けるのだろうか、と思った。

 小説を書き、誰かに届ける、そのことで僕らが辿り着ける場所はあるのだろうか。


 やがて二人は、その半地下の店内から、地上へ抜けだした。ちゃきーん、と、彼はコーヒー代の領収書を切ってもらった。宛名は小学館で──。


 その日、ともかく誰か、若者の人生を取材しよう、ということだけが決まった。


次回の更新は8月2日(水)です!

この連載について

余命2か月といわれた男—小森谷くんが決めたこと

中村航

僕、余命2ヶ月って言われたんですよ。でも、生き残っちゃいましたけど――。末期がんを宣告された30代男性の“ありそうでなかった”半生を、「100回泣くこと」の著者・中村航が小説化!

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stu_sor 神保町の「さぼうる」! 4ヶ月前 replyretweetfavorite