「中村さんに、男子の小説を書いてほしいんです」
「男子の……小説?」
コーヒーカップを置くと、かちゃり、と頼りない音がした。
神保町の“さぼうる”という古い喫茶店で、背の高い編集者と打ちあわせをしていた。
この人はいつも茫漠とした表情をしているが、二年に一度くらい、情熱的に語りだすことがあった。
「中村さんの描く男子の恋とかですね、男子の友情とか、夢とか、成長とか、家族とか、そういうものを、僕は読みたいんですよ」
ふうむ、と頷く形になった。
そんなふうに言われると、僕だって読んでみたいし、書いてもみたい。
だが何というかアレだ。何だろう……、それって……
「普通じゃないですかね?」
「普通?」
不可解だ、という表情を編集者はした。
表情はやがて深刻そうなものに変化したが、また元に戻った。
「僕はですね、」
思いきって告白します、聞いてください中村さん、という顔で彼は言った。
「中村さんの描く、男子の恋とか、友情とか、成長とか、夢とか、そういうものを読んでみたいんですよ」
「いや、それはさっきも聞きましたけどね、それって、ほとんど絞れてないじゃないですか」
「絞れてないとは?」
どういうことでしょう、と、彼は僕の目を見る。
「だって、それはつまり、主人公が男子、ってことだけですよね?」
「……ええ。まあ、そうなんですかね」
「小説を二つに分けるとして、そのうち一つのほうを書いてください、って言ってるだけですよ。半分しか絞れてないですよ」
「そう、なのでしょうか……」
考え込む仕草をする編集者に、僕は付け加えた。
「“男子トイレ”の“男子”って、年齢は関係ないですよね。多分、のび太くんも、スティーヴ・ジョブズも、男子じゃないですか。織田信長とか、モンキー・D・ルフィとか、宮尾くんも男子ですよね? 木戸さんや吉田くんも男子ですよね」
「あー、そうですねー。男子っていっても、いろいろいますからね」
ふ、ウケる、という感じに彼は笑った。
「じゃあ男子って、何なんですかね?」
結構マジに訊いてみた。
「んー、難しいですね」
「ちなみに、どういう男子の話が読みたいとか、そういうのはないんですか?」
「僕はですね、」
編集者はその日一番の、真面目な顔をした。
「中村さんが描く男子の恋とか、友情とか、成長とか、情けなさとか、涙とか、そういうのを読んでみたいんです」
「……ですよね」
受け入れろ、と、僕は思った。
同じ台詞が三回繰り返されたなら、それをそのまま受け入れるしかないのだ。
喫茶さぼうるの店内は、洞窟のなかのように暗かった。
壁の煉瓦は大量の落書きに満ちていて、ところどころに有名人のサインがある。またこの店のピザトーストは、トーストのぶ厚さが尋常ではない。
「僕は中村さんに、男子の小説を書いてもらいたいんですよ」
時代から取り残されたような素敵レトロな喫茶店で、止まったような時が、静かに流れ続けた。
コーヒーカップのふちをいじりながら、僕は考えを巡らせる。
男子小説……。恋とか、友情とか、成長……。涙や、情けなさや……夢……。中村さんの描く男子……。しかしそこで描かれる男子とは、一体……。
「けど……あれですね」
僕は編集者と目をあわせた。
「普通……ですか?」
「ええ。普通の人の、普通の恋や、普通の友情とか、普通の成長とか、って普通に面白いと思うんですよね。そしてそれはきっと、ちょっと普通じゃないんですよ」
「ええ、そうですね。わかります」
身を乗りだした編集者が、うんうんうん、と頷いた。
「そうですね。うん。いきましょう! 普通の男子の話でいきましょう!」
編集者はいきなりノリノリな感じになった。
「いや、ただですね、」
だが彼は何もわかっていないようだった。
“男子の小説”が、“普通の男子の小説”になったところで、まだ何も絞れていないのだ。
「普通って何ですかね? 普通って言ってもいろいろですよね?」
「そうなんですよ。普通って難しいんですよね」
僕らは、うーん、と考えた。きっとクリリンも織田信長も、自分のことを普通だと思っているだろう。
僕だって普通だし、目の前にいるこの人も、ときどきおかしなことを言う(プールにカツオを並べる光景を思い浮かべるとよく眠れる、とか)が、自分のことを普通だと思っているに違いない。
例えばこの編集者の恋や友情や夢を描こう、とは全く思えなかった。またもちろん、モンキー・D・ルフィの成長や冒険を描くわけにもいかない。
「誰かに取材してみると、いいかもしれませんね」
「それは……無作為に選んだ誰か、ってことですか?」
「ええ、まあ、それに近い感じで」
ほほう、と思った。その人の小説を書けるか書けないかはわからないけれど、話を聞くのは面白いかもしれない。
「いいかもしれないですね。初めて会う人に、いろんな質問をする。人生の取材みたいなことですね」
「面白くなるか、ならないか、どっちかですよね」
「そりゃそうでしょう」
面白いかもしれないな、と思った。
だけど全然、面白くないかもしれない。
どっちにしても、ダイスを転がしてみないと、運命の往く先はわからない。
編集者は手元の手帳に何かをメモし、それから、ちら、と腕時計を確認した。次の用事があるから、僕らは十六時にさぼうるを出なければならない。
「今、何時ですか?」
「十六時ですね」
「え、じゃあもう出ないと!」
「いや、僕の時計、五分進めてあるんです」
「え?」
この人は一体、何を言っているのだろう、と思った。だったら、十五時五十五分、と答えるべきなんじゃないだろうか……。
「えーっと、ですね」
と、僕は言った。
「五分進んだ時計とか、三分遅れた時計ってのは、決して正しい時刻を示すことはないんですよ。
その時計は、永遠に間違った時刻を示し続けるんです。わかりますか?」
「ええ……」
この人は、だいたいいつも茫漠とした表情をしていた。きっと頭の奥に荒涼とした場所があって、そこを霧で隠すように、漠としたものが取り巻いているのだろう。
「でもですね、」
僕はこの人の目をじっと見た。
「壊れて動きを止めてしまった時計は、一日に二度、正しい時刻を示すんです」
「……はあ」
僕とこの人は、いつか真実や優しさに辿り着けるのだろうか、と思った。
小説を書き、誰かに届ける、そのことで僕らが辿り着ける場所はあるのだろうか。
やがて二人は、その半地下の店内から、地上へ抜けだした。ちゃきーん、と、彼はコーヒー代の領収書を切ってもらった。宛名は小学館で──。
その日、ともかく誰か、若者の人生を取材しよう、ということだけが決まった。
次回の更新は8月2日(水)です!