第三章 惑乱の渦中へ 9 不意打ち(前編)

徹生が死んでから、千佳は発作を起こすようになっていた。体が動かなくなり、生きていた時の徹生のことを思い出し、自分を責め苦しむ。しかし、ここ最近は平穏な日常が戻ってきつつあった……。平野啓一郎さんの小説『空白を満たしなさい』が、3章までの限定公開です。

「あの人が殺したのよ。」

 水尾駅の土産物売場で、梅饅頭の箱を整理していた千佳は、その声を耳にした瞬間、誰かに体をロックされたように、指先一つ動かすことが出来なくなった。ハッとした時には、もう手遅れだった。

 閉じ込められた体の中で、彼女は孤独に火照った。焦れば焦るほど、どこをどうすれば、また体が動くのかがわからなくなる。息苦しくて、泣き出したかったが、涙の出口は固く閉ざしたままだった。傍から見れば、ただじっとしているだけである。しかし彼女は、自分自身の深みの中で、溺れたように必死で藻掻いていた。

 一年ほど前までは、よくこうした発作に襲われていた。一番恐い思いをしたのは、璃久を連れて横断歩道を渡っていた時だった。赤になっても足が前に進まない。怒号のようなクラクションと共に迫り来る車を目前にして、彼女は璃久に懸命に手を引かれながら、誰にも聞こえない悲鳴を上げ続けていた。

 落ち着かなければと、千佳は念じた。あの人たちは、決して自分を指差して言っているのではない。あれは、午前中に見た再放送のドラマの話だ。自分のことじゃない。夫が自殺したのは、やっぱり奥さんのせいらしいとか、そんなヒソヒソ話が、また蒸し返されているんじゃない。……

 漏れ出した時間の嵩が見る見る増していって、過去と現在とが、無闇に混ぜ返されていく。そうして、七年前に、ここで初めて徹生と出会った時の記憶が、ゆっくりと迫り上がってきた。

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空白を満たしなさい

平野啓一郎

cakesでもインタビューを行った、平野啓一郎さんの小説『空白を満たしなさい』(講談社)が、3章までの限定公開です。年間約三万人の自殺者が出るこの国で、生と死、そして幸福の意味を問う意欲作。平野さんの考えた概念「分人」をまとめたcak...もっと読む

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hiranok cakesの試し読みの続きです。【 4年以上前 replyretweetfavorite