「天保水滸伝」(なかのZERO小ホール「神田松之丞独演会/松之丞ひとり~夢成金」2017年5月26日)より
撮影・青木登(新潮社写真部)
自身の芸名を貰った日のことを松之丞は覚えている。
「あの時は、十一月下席(下旬)がうちの師匠の芝居(その真打がトリを務める興行)だったんですよ。僕は十月三十日に入門志願して、十一月二十一日に師匠が、俺の芝居に来いと呼んだんです。(新宿)末廣亭に毎日通って、その千秋楽に『名前を考えてきた。紙に書いてきたから』って。和紙にぴっと〈松之丞〉って書いて落款まで捺してある。もう後戻りはできないぞって状況だけど、そのとき全然ぴんとこなくて(笑)。(古今亭)菊之丞師匠が落語界にいたんで、〝之丞〟って俺の任じゃないな、とか思いながら、ちょっと間をおいて『ありがとうございます』みたいな感じでしたね。そのとき国分健二先生(漫談)がビール飲みながら『俺、すごい瞬間に立ち会えたんやな』て言ってたのを覚えてます。末廣の二階で小っちゃいテレビがガーガー言っている中、『おまえは今日から松之丞だ』という記憶です」
日本講談協会に入ってから間もなく、松之丞は初高座を務めている。定席ではなく、兄弟子である神田鯉風の独演会だった。そこで読んだのが『三方ヶ原軍記』である。元亀三(一五七二)年、甲斐国の大名・武田信玄は徳川家康と激突する。その模様を勇ましく描いた内容で、修羅場と呼ばれる合戦場面の典型が含まれるところから、講談師の前座はみなこれを最初に習うのである。もちろん松之丞もそうだった。