横須賀の盛り場に伝説の〈流し〉を探して【横須賀・若松マーケット】

数々の街歩き取材を重ねてきた、ライター兼編集者のフリート横田氏。2020年の大イベントを前に、東京周辺の街が大きな変貌を遂げつつあることを肌で感じているといいます。その危機感から始まった本連載。
第八回は、東京から少し離れた場所にある硬派な酒場へ。そこに流れ着いた唯一人残る<流し>の波乱万丈な生き様について。


夕暮れの横須賀。
まだ灯りをともさないネオン看板が並ぶ飲み屋横丁を抜け、約束の場所までやってくると、男性が一人、こちらに背を向けて立っている。パリッとした紫のシャツを着こみスラックスのポケットに片手を入れたまま、ゆっくりとタバコをくゆらせている。白髪交じりの髪は短く刈り込まれ、年配の方なのだが、凛とした佇まいである。

「おう、来たか」

こちらが挨拶するなり振り向いたのは、〈流しのカズさん〉。

筆者は約束の時間に出向いたが、カズさんはずいぶん前から待ってくれていたようだ。
こちらは名刺を渡したが、カズさんは名刺を持たない。横須賀の酒場なら、名乗るだけで顔が利く。この方、横須賀に唯一人残る、〈流し〉なのである。



(撮影:三輪友紀)

いや、横須賀に限らず首都圏でも、歴史的存在としての〈流し〉は、もうカズさんしかいないのではないだろうか
(東京では恵比寿などに若い流しの方もいるようだが、後述する、「戦後の盛り場から生まれた流し」は、他にいたとしてもおそらく、お一人かお二人くらいだろう……)。

ここは、横須賀・若松マーケット。終戦後に生まれたヤミ市がルーツの、古く、それだけに味のある、くねった路地が続く飲み屋街だ。
名物の「横須賀ブラジャー」を飲みながら、カズさんに話を聞いた(ブランデーとジンジャーエールのカクテルだから「ブラジャー」。ちなみに、筆者は無理くり作ったご当地メニューにあまり惹かれないが、これは素直に旨いしアリだと思う。何より、地元の常連客たちがよく飲んでいるのが、好ましく思える)。


カズさんまで続く〈流し〉の系譜は、
終戦後の盛り場から始まった。


カズさんは、昭和39年、青森県から整備工として集団就職で上京。しかしすぐに仕事はやめ、夢であった歌い手になることを決意する。その後、ゆえあって新宿に行きつき、流しの事務所に入った。
当時、新宿にはいくつかの流しのグループがあったらしく、都内にはその他に、浅草、銀座、上野、向島にも流しの団体があったよう。若い歌い手たちがギターやアコーディオンを携えて、飲み屋を流して回っていた。

そもそも〈流し〉とは、どこから来たのか?
古くは江戸時代、三味線を携えて二人組で遊里などを回った「新内流し」や、明治から昭和初期頃にかけて、月琴を片手に法界節を歌った「法界屋」という職業がイメージに近い。が、現在の流しとは直接関係がない。
また明治期には、自由民権運動の壮士たちがその思想をバイオリンを弾きながら歌いあげる「演歌師」があらわれ、戦前までは流しを、演歌師とも呼んだ。だがこれもどうも、本稿で言う流しとはニュアンスが違う。政治演説を歌で聞かせた演歌と、人々の情念を酒場で歌う演歌では、同じ文字だが、まるで意味が違う。
ただし、演歌師という言葉は、戦後にも残った。

やはり、ここで言う流しは、戦後に生まれたものと言っていいだろう。
カズさんが所属した事務所は、テキヤ組織の経営するものだったらしく、他の事務所もテキヤ系統の事務所が多かったようだ。おそらくヤミ市を仕切ったテキヤ組織の人々が、ヤミ市がしだいに盛り場に変化していくにつれ、酒のおともに歌を届けたのだろう。


長年流し歩いてきたのは、昭和の横須賀の夜の街。

カズさんは新宿で、プロ歌手になるオーディションを受け合格し、芸名をもらったこともあるのだが、最終的には「一生他人の歌を歌う」と決意して、流しの道に入った。その後、新宿から横浜に移り、流しの師匠に出会い、師匠の住む横須賀にやってきた。

師匠からはレコードに忠実にギターを弾くように叩き込まれ、指を血まみれにしながら毎日12弦のギターを弾き、一日3曲ずつ覚えていったという。おかげでいまは軍歌から、演歌、歌謡曲と2千曲を超えるレパートリーがある。

長年、田端義夫や岡晴夫、北島三郎など、往年の流行歌を横須賀で歌い続け、旧海軍士官が集まった料亭では軍歌を歌い、安浦の艶っぽい飲み屋街では船乗り相手に歌い、事務所のツテ(かつては全国的なテキヤのネットワークがあったと思われる)で、ときには新潟や鹿児島まで遠征して歌った。

若いころは「ずいぶんモテた」そうだが、一方でケンカも多く、取っ組み合いがはじまるや、真新しいギターを柄物にして壊してしまったこともあれば、歌っている最中に頭からビールをかけられたことさえあった。
かつて盛り場には怪しげな人間も多く、暗がりに連れ込まれたり、ある港町では、ハシケとハシケの間に死体が浮いているのを目にしたこともあるという。
「オレも2、3回、死ぬ思いをしたな」とカズさんは笑う。

カズさんが横須賀に来た頃は、100人を超える流しがいたそうだが、昭和40年代後半頃には30人ほどに減り、昭和50年代にカラオケが普及しだしてからは、さらに人数を減らしていった。


だが、カズさんとしては流し減少をカラオケのせいばかりにはしていない。
「ギターをコードでしか弾かなかった人たちは、みんなやめていったよ」と、言いながら、耳コピしたレコードに忠実に、いまもギターを弾くカズさん。こうも言う。
「歌手と流しは歌い方が違うんだ。流しは客の思いを、“くすぐるように”歌うんだ」。
オレはただの伴奏マシーンじゃないぞ、という矜持をカズさんは持っている。

たった一人の流しとなった今は、精力的に老人ホームでの無料慰問を続けている。
入居者の前でギターをかきならし、一緒に童謡を歌うのだ。すると「寝たきりの人が歌いだすんだよ」。

ここまで続けてこられた理由は、筆者が見たところもう一点、あるように思う。
正直に言って、カズさんの話し口調、立ち居振る舞いは、相当にワイルド……。最初はちょっと面食らったけれど、筆者はそこにこそ惹かれる。この雰囲気でなければ、「荒っぽい海の男が多かった」という横須賀の盛り場では、きっと長年渡り合ってはこれなかっただろう。


昭和の演歌師が輝ける場所は、
どこの酒場でもいいわけじゃない。

それと、余談をひとつ。
カズさんが流して歩くこの飲み屋街、若松マーケットもまた、カズさんと同じ風格を持つ、貴重な存在に筆者には思える。荒々しい男たちが全力で酒を飲んで憂さを晴らした酒場の凄みが、今もわずかに残っているからだ。

安さや入りやすさをうたった文言など、今もほとんどの飲み屋には出ておらず、また窓もない店も多くて店内の様子もうかがいしれない。並ぶピンクや緑の濃厚な色彩のネオン看板を見ても、「今日は酒と対峙する」という気概を持って臨まねば、どの店のドアも一人で開くにはためらわれるかもしれない。
開けたら開けたで、ママさんたちに昔話を尋ねると、船乗りのケンカ話や、酒豪の逸話が次々に飛び出す。

一言で言えば、ここは希少な「硬派な酒場通り」なのだ。
昭和の時代、こういう盛り場はそこらじゅうにあったかもしれない。だが東京から少々離れ、京急に揺られてトンネルをいくつも抜け、ひっそりした海辺の町に、こんな風景や気配が残っていることが筆者には桃源郷のようにも感じられる。
カズさんはこの風景に、実によく似合う。



(撮影:三輪友紀)

いま、荒くれた人々は消え、若い人たちが「お酒も静かに飲むようになって、そもそもが量を飲まなくなった」(ある店のママさん談)けれど、ずいぶん足を運ぶようにはなったという。こんな時代だからこそ、力強い昭和の路地の気配に、人は惹きつけられるのだろうか。

「本物の演歌師の歌を聞かせてやる」

取材後、筆者について来いと言って酒場に向かうカズさんの後ろ姿は、確かに力強く、凛々しかった。



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この連載について

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フリート横田

ライター兼編集者として、数々の街歩き取材を重ねてきたフリート横田氏。著書『東京ノスタルジック百景』からのcakes連載が好評を博し、満を持して書き下ろしの連載がスタート。2020年の大イベントを控え、急激に変化しつつある東京。まだわず...もっと読む

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fleetyokota ヤミ市から生まれた盛り場には、「流し」がよく似合う。 4日前 replyretweetfavorite