1989年という時代の変わり目
1989年は時代の変わり目となる1年でした。
フリッパーズのデビューアルバムの初回出荷枚数は3000枚。当時ヒットしていた他のアーティストたちの10分の1以下です。しかし彼らはその数字以上の影響力を後にもたらすことになる。つまり、時代を変える新たな胎動がこの年に生まれた。この本で語ってきた69年、79年と同じです。
そして重要なのは、フリッパーズが何もないところから登場して瞬く間にムーブメントを起こしたわけではないということ。その前には数年間にわたる蓄積があった。アンダーグラウンドにいた若い音楽愛好家たちが土壌を耕していた。これも60年代、70年代と同じです。時代を変えるスターが華々しく世に登場する前には、その呼び水となる場が用意されているのです。
その予兆は、80年代半ばから起こっていました。
ただ、僕はそこには一切関与していません。85年には旧国立競技場で行われた「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW」ではっぴいえんどの再結成の裏方的な動きをしていた。制作プロデューサーとして参加したノン・スタンダードの終了を見届けたその後の数年は心身の調子を崩して、街やラジオから流れるポップソングにも耳をふさいでいた。だから、これは後になって当事者たちから聞いた話です。
80年代半ばの都内では「東京ネオアコシーン」と自称する動きがありました。シーンと言っても、実際のところは顔見知りの友達同士が集った小さな輪でしかない。彼らは同時代の洋楽、特にイギリスのアーティストたちに憧れていました。当時のニュー・ミュージック、佐野元春やサザンオールスターズなども含めて、邦楽はほとんど聴いていなかった。
80年代前半のイギリスには小さなインディー・レーベルが点在していました。ラフ・トレード、ポストカード、チェリーレッド、コンパクト・オーガニゼーションなど数々のレーベルが発足していた。70年代後半のパンクの勃興、その後すぐに訪れたムーブメントの終焉を経て、そこがアフター・パンク世代の新しい音楽を模索するアーティストたちの拠点になっていた。
その中にアズテック・カメラなど、70年代パンクの精神やDIYな姿勢を引き継ぎつつ、アコースティック楽器を用いて、よりメロディアスな音楽性を追求したアーティストたちがいた。それが日本においては「ネオ・アコースティック」という和製英語で紹介され「ネオアコ」と略されて広がりつつあった。
そういうイギリスのアーティストに憧れた若者たちが小さなコミュニティーを作っていた。そこからネオアコに直接的に影響を受けたバンドが登場してきていた。そうしたリスナーやミュージシャンがシーンを作っていたのです。
源流となった「ラフ・トレード友の会」
80年代初頭の時点で、イギリスのインディー・レーベルの動きは日本にも伝わってきていました。
81年、当時は新興のレコード会社だったジャパンレコード(現、徳間ジャパン)がラフ・トレードと契約を果たします。そして所属アーティストのアルバムに加え、シングル盤や周辺レーベルの音源を集めた独自編集の日本盤『クリア・カット』のシリーズなどをリリースする。
彼らはレーベルのファンクラブも作りました。それが通称「ラフ・トレード友の会」。それもオフィシャルなファンクラブではない。アンテナ感度の高いファンを集めて、そこで内々にフライヤーを配ったり、ミュージックビデオの試聴会を行ったりしていた。こうやってファンを広めようとしていた。それまでもレコード会社で洋楽の宣伝を担当していた人間がよく使っていた手段です。
これが一つの源流になりました。ラフ・トレードのスタンスがその後のシーンに影響を与えたポイントは、大きく三つあります。
一つはパンクの精神性が根本にあるということ。前の世代に敬意を払いその音楽を継承するのではなく、そこに距離をとり、ある種の断絶と共に新しいポップスを構築しようとする価値観です。一つは英語で歌うということ。海外進出を考えていたわけではなく、洋楽しか聴いていないわけだから日本語で歌うという発想自体がなかった。そしてもう一つは、レーベルが音楽だけでなくロゴデザインやアートワークをとても大事にしていたということ。
これらのセンスが80年代半ば以降の東京ネオアコシーンに受け継がれていくことになるわけです。
青山学院大学と『英国音楽』
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