「夜になると、私の遺伝子たちが、しくしく、しくしく、体中で泣き始めるんですよ。今だって、ほら、聞こえませんか? 誰でもいいから、早くどっかの女の遺伝子と合体させてくれ、こんなところで滅んでしまいたくない、とね。私はそれを虚しく宥めるだけなんですよ。かわいそうに、それは無理なんだよと。まず金がない。金は重要ですよ、何と言っても。それに、こんなに醜くて、性格も陰気です。歳はもう四十を過ぎてる。まあ、見込みゼロですよ。あなたもそう思うでしょう? もっとも、こんな私にしたのは、遺伝子自身だと思いますけどね。」
徹生は、胸の前でシートベルトを握ったまま、佐伯のその言葉に眉を顰めた。この男は一体、何の話をしようとしているんだろう? 遺伝子が泣いている?
佐伯は相変わらず、呼吸の度に、聞いている方が息苦しくなるような鼻の音を立てている。花粉症を放置して、手の施しようがなくなっているような感じだった。
「あれこれ、キレイごとを並べてみたところで、人間の好き嫌いだけは、どうしようもない。違いますか? 私は、世間の人間が、私を嫌う権利を尊重します!絶対に。好きになれだなんて、誰が強要できます? 中には、こんな私にも、同情や憐憫を恵んでくれる人もいますよ。けど、好きになるかどうかは、まったく別問題です。当然です! 私にだって、好き嫌いはある。絶対に、人からとやかく言われたくないです。」
そう言うと、佐伯は一旦口を噤んで、やはり目を合わせないまま言った。
「例えば、私はあなたが嫌いなんです。いなくなってくれれば、どんなに清々することかと思いますよ。」
佐伯は、決して逃がすまいとするように、シートベルトのバックルを握り締めていた。口調は静かだったが、言葉が途切れる度に、車内が緊迫した。
今、この状態で襲いかかられれば、一溜まりもなかった。誰か来てくれないかと外を見たが、駐車場は、水を打ったように静まり返っている。
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