第二章 人殺しの影 7 佐伯という男(前編)

呆然とする徹生の前に、工場長の権田が現れた。権田は気難しいと周りから言われていたが、なぜか気が合う徹生は昔話に花を咲かせる。そして、話題はついにあの話に…。平野啓一郎さんの小説『空白を満たしなさい』が、3章までの限定公開です。

 会議室を出て、独りで乗り込んだエレベーターの中で、徹生は、「エェッ、気持ち悪い。……」という女の声を聞いて、背後の壁に支えを求めた。どこの階かはわからなかったが、それが自分についての噂話だということは察しがついた。

 生き返って以来、今まで誰も、面と向かってそんなことを言ったりはしなかった。しかし、そう思うのも無理はなかった。就業時間中なのに、調子っぱずれな笑い声も聞こえてくる。まるで、人の本心が連なっている暗いトンネルの中を潜っているかのようだった。

『あの日の落下も、こんなに孤独だったんだろうか?……』

 徹生は今、それとほぼ同じ距離を、ゆっくりと辿り直している自分に気がついた。

 ヒソヒソ話が急に止んだ1階を抜けて外に出ると、もうここには戻って来ないのかと、また寂しさが込み上げてきた。この町に住み始めたのも、元はと言えば、この会社に就職したからだった。

 手で庇を作って空を見上げた。この空は、三年前のあの日のすべてを見ているはずだった。あの人影が誰かも知っている。あの男じゃないのか? あの佐伯という男。

 不意に、背後に人の気配を感じた。徹生はビクッとしてその場から飛び退いた。相手も、驚いて声を上げた。後ろを振り返ると、立っていたのは、工場長の権田だった。

「権田さん、……」

「てっちゃん、あんた、生きてたのか。さっき噂聞いて、まさかと思ったけど。」

「生きてたっていうか、生き返ったっていうか。」

 徹生は、笑って言った。気難しいと皆に敬遠されがちな工場長だったが、徹生とはなぜか気が合って、いつも自然とくつろいだ口調になった。

「あんた、うちの娘が不登校になった時、心配して、夫婦で食事に招いてくれたよな? 奥さんが、家で手料理作ってくれて。」

「え?……ああ、権田さん、すごく心配してたから。元気にしてますか、アイちゃん?」

「あの日は朝まで、たくさん音楽聴かせてくれて。」

「そうそう。CDが並んでるの、熱心に見てたから。若いのに、シブい昔のロックとかに反応してたなあ。」

「今でも聴いてるよ、何だか知らないけど! あんたのCD、奥さんが形見にくれて、今、うちにあるんだよ。」

「え、そうですか? なんだ、知らなかった。」

「生き返ったんなら、返さないとな。」

「いやいや、いいですよ。持っててもらって。」

「あんたが死んでからも、奥さん、うちの子に随分と親切にしてくれたんだよ。いい人だよ、あの人は。」

「そうですか。……妻もきっと、アイちゃんに慰められたんだと思います。」

 徹生は、気楽に話していたが、感に堪えないような表情の権田を見て、ようやく、この突飛なやりとりの意味を理解した。

「あんた、やっぱり、てっちゃんだよ!」

 権田は、徹生の腕を痛いほど強く叩きながら、本物と確信したように言った。

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空白を満たしなさい

平野啓一郎

cakesでもインタビューを行った、平野啓一郎さんの小説『空白を満たしなさい』(講談社)が、3章までの限定公開です。年間約三万人の自殺者が出るこの国で、生と死、そして幸福の意味を問う意欲作。平野さんの考えた概念「分人」をまとめたcak...もっと読む

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hiranok cakesの試し読みの続きです。【 5年弱前 replyretweetfavorite