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二人は最後の散歩に出かけた。
散歩と言っても、家から徒歩二分の、いつものタコ山だ。その上に腰をおろすと、星太朗がムッシュを横に座らせる。
昔からそうしてきたように、いつもと何も変わりないように、ムッシュを隣に座らせる。
見上げるが、星は見えない。空は曇っていた。
「いつから、考えてたの?」
ムッシュがぼそりと聞く。
「最初からだよ」
そう、星太朗は、壁に願いを書いたときからそれを考えていた。そしてムッシュにばれないように、本の裏にそっと書いたのだった。
それから星太朗は、ムッシュにいくつかの嘘をついた。
出社するふりをして同窓会に参加したり、病院に行くふりをしてぬいぐるみショップを巡ったり、神奈川に住んでいる親戚に会いに行ったり。
嘘をつくのは得意じゃなかったし、ムッシュにばれるかもという不安はあったけれど、そんなことは吹き飛んでしまうほど、強い意志が星太朗を動かしていた。
ムッシュを託せる人を見つけるまでは、絶対に死ねない。
そう思っていた。
だが当然、それは思うようにはいかなかった。
一番ショックだったのは、花本さんが失敗に終わったことだった。
彼女が黙ってムッシュを横に寝かせてくれたとき、そして関白宣言を歌ったとき、この人ならムッシュを託せるかもしれない。そう思った。
初めてそう思えた相手だったのに、きちんとした計画も練らず、勢い余って食事に誘ってしまった自分を呪った。
一番の願いごとは、一番叶いにくいものなんだ。
そんなふうに、ムッシュに言われている気がした。
そうして思い悩んでいたときに、偶然目の前に現れたのが、夢子ちゃんだった。
「ずるいよ」
ムッシュのふてくされ方は普段と違った。いつもなら、ぷいとそっぽを向くところだが、今日は空を見上げたままだ。
「お互い様でしょ」
星太朗があっさり返すと、ムッシュは立ち上がった。
「……でも……。ダメだよ、やっぱり。ぼくの十個目はまだ叶ってないんだし。ぼくがそばにいないと!」
星太朗は首を横に振る。
その顔は、ゆるぎない何かを見つけたようだった。
気持ちはもう完全に固まっていて、どうやっても動かない。
そんなふうに思えたし、覆らないことはわかっていた。
どんなに願っても、どんなに頑張っても、どうしようもないことがある。
それが人生だ。
ムッシュにはわかっている。
けれど、それでも、やっぱり受け入れたくなかった。
最後まで諦めたくない。最後まで一緒にもがいて、最後の最後まで、一緒にいたかった。
一緒に旅立ちたかった。
星太朗はそんなムッシュの気持ちに気付いているのか、頬をゆるめて、小さく言った。
「ムッシュ、僕は死なないよ」
ムッシュはじっと、星太朗を見つめる。
「死なないから」
星太朗がもう一度言う。
「うん」
ムッシュはこくりと頷いた。
それからしばらく、二人は夜空を見つめた。
だが雲は晴れてくれない。
二人の願いは届かず、星を見ることはできなかった。
「よしっ」
星太朗がムッシュを抱いて立ち上がる。
団地に向かって、大きなお辞儀をした。
「二十七年間、お世話になりました!」
「お世話になりました!」
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