ムッシュが目を覚ますと、星太朗は机に向かっていた。
カーテンを閉めたままの暗い部屋に、卓上ライトだけが灯り、鉛筆が紙の上を走る音が響いている。
陰になった背中しか見えないが、星太朗の真剣さは伝わってくる。
ムッシュはしばらく布団の中で、心地良い鉛筆の音を聴いていた。
星太朗が朝ご飯を食べ終えると、ムッシュは家を出る準備にとりかかった。
ちょうど二十年間過ごしてきたこの部屋には、そこらじゅうに大切なものが並んでいる。
古ぼけたソファの座り心地も好きだったし、星太朗が縫ってくれた自分サイズの布団も手放せない。本棚には、何度も読み返した大好きな本と、擦り切れるほど聴いた歌謡テープが並んでいる。けれど、病院に持って行けるのはせいぜいリュックに入りきるものだけ。それを選ぶのは、とても難しい作業だった。
特に本は選ぶときりが無いので、持っていくのは一冊ずつにしようと決めた。
山吹色、水色、栗色、薄桃色、赤、ビリジアン。
鮮やかに並ぶ六色の背表紙を眺めてから、その一冊ずつに触れていく。
だけどそれは選ぶためではなく、さよならを言うためだった。
一番のお気に入りは、最初から決まっていた。
ビリジアンの背表紙に、真っ白な文字が光る、お母さんの最後の小説。
〈百年〉という物語だ。
ムッシュはそれをリュックに詰めると、今度は本棚の下から、古いアルバムを出して開いた。
そこには二人の思い出がぎゅうぎゅうに詰まっていた。
それに一枚一枚見入っている間に、てっぺんにあった太陽は、団地の向こうに隠れようとしていた。
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