死んだ母は、こっそり泣いていた

とうとう小説を書き終えた星太朗。ぬいぐるみのムッシュに小説を手渡した彼には、もうひとつだけ、叶えたいことがあるという。その叶えたいことは何か、と不思議に思うまま、星太朗の小説を読み始めたムッシュ。その間、星太朗は大切な記憶を思い返していた。
ぬいぐるみと出版社校正男子の切なさMAXの友情物語小説『さよなら、ムッシュ』を特別掲載!
イラストは、なんと松本大洋さんの描きおろし!

 ムッシュが目を覚ますと、星太朗は机に向かっていた。

 カーテンを閉めたままの暗い部屋に、卓上ライトだけが灯り、鉛筆が紙の上を走る音が響いている。

 陰になった背中しか見えないが、星太朗の真剣さは伝わってくる。

 ムッシュはしばらく布団の中で、心地良い鉛筆の音を聴いていた。


 星太朗が朝ご飯を食べ終えると、ムッシュは家を出る準備にとりかかった。

 ちょうど二十年間過ごしてきたこの部屋には、そこらじゅうに大切なものが並んでいる。

 古ぼけたソファの座り心地も好きだったし、星太朗が縫ってくれた自分サイズの布団も手放せない。本棚には、何度も読み返した大好きな本と、擦り切れるほど聴いた歌謡テープが並んでいる。けれど、病院に持って行けるのはせいぜいリュックに入りきるものだけ。それを選ぶのは、とても難しい作業だった。

 特に本は選ぶときりが無いので、持っていくのは一冊ずつにしようと決めた。

 山吹色、水色、栗色、薄桃色、赤、ビリジアン。

 鮮やかに並ぶ六色の背表紙を眺めてから、その一冊ずつに触れていく。

 だけどそれは選ぶためではなく、さよならを言うためだった。

 一番のお気に入りは、最初から決まっていた。

 ビリジアンの背表紙に、真っ白な文字が光る、お母さんの最後の小説。

〈百年〉という物語だ。

 ムッシュはそれをリュックに詰めると、今度は本棚の下から、古いアルバムを出して開いた。

 そこには二人の思い出がぎゅうぎゅうに詰まっていた。

 それに一枚一枚見入っている間に、てっぺんにあった太陽は、団地の向こうに隠れようとしていた。

 部屋が薄暗くなった頃、星太朗は最後の一文を書いて、鉛筆をそっと置いた。

 ふぅ、とひと息ついてからノートを閉じる。

 それから、細いマジックでタイトルを書いた。


 ①小説を書く


「お待たせ」

 星太朗がムッシュに、ピンクの包みを差し出す。

 ムッシュが包みを開けると、二冊を貼り合わせた分厚いノートが出てきた。

 表紙には『ムッシュ』というタイトル。

 その下には『作・森星太朗とムッシュ』と書かれていた。

「どうして……?」

「二人の話だから」

 星太朗はそう言うと、壁の『①小説を書く』に、大きな花まるを付けた。

「よしっ。これであと一つ……」

 するとムッシュがソファを飛び降りた。

「だねっ。じゃあ読む前に!」

 トランプを出して蓋を開ける。

「……いや、それはもういいんだ」

 星太朗は首を横にふった。息を吐き、ソファに腰掛ける。

「いや、でも、あと一つだよ?」

 ムッシュが不思議そうに見上げるが、星太朗は何も言わない。

「あ、あと一つってあっちのことか。そうだよね」

 ムッシュが壁を見上げ、てっぺんの文字を見る。


 ⑩星太朗を死なせない


 星太朗はそれに目をやると、もう一度、今度は小さく首をふった。

「実は、もう一つだけ、叶えたいことがある」

「え、なに?」

 ムッシュが聞くと、星太朗はまた黙り込んだ。

 それは、とても言いにくいことだった。

 星太朗は口をつぐんだまま、視線をノートに落とす。

 ムッシュはその目に誘われるように、ゆっくりと表紙をめくった。


  死ぬのが怖いのは、どうしてだろう。

  自分がいなくなってしまうから。

  まだ人生を楽しめていないから。

  その先に、何があるかわからないから。

  いや、どれも違う気がする。


 ムッシュが読んでいる間、星太朗は大切な記憶を思い返していた。

 ムッシュを縫っていたお母さん。

 するするとしなやかに動く、その細い指。

 強くて、優しいまなざし。


  それは、大好きな人と、別れないといけないからだ。

  でも、それよりも、もっと怖いことがある。


 星太朗は思い出す。

 お母さんが、こっそり泣いていたことを。

 ムッシュを縫いながら、声を出さずに、ひたすら静かに、涙をこぼしていたことを。

 それから、星太朗は想う。

 いつだって、自分のそばには、ムッシュがいてくれたことを。


  一番怖いことは、大好きな人を、守れないことだ。


次回の更新は、7月19日(水)です!


話すぬいぐるみと出版社校正男子の切なさMAXの友情物語!


『さよなら、ムッシュ』片岡翔

この連載について

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さよなら、ムッシュ

片岡翔

あの日。気がついたら、その子は話しはじめていた。コアラのぬいぐるみのはずなのに。 それ以来、彼はそのことを20年間秘密にして、生きてきた――。 気鋭の新人映画監督・片岡翔が初めて小説『さよ...もっと読む

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コメント

kawamotsu 地味にずっと読んでる。 本買おうかな。 3日前 replyretweetfavorite

tomshirai 一番怖いことは、大好きな人を、守れないことだ。 4日前 replyretweetfavorite