渋谷スクランブル交差点にて:牧村憲一(中央)、藤井丈司(左)、柴 那典(右)
なぜ渋谷は音楽の街になったのか?
22歳の頃選んだ、選ぶしかなかったのが音楽の仕事でした。それは60年代終わり頃から90年代にかけて音楽家と共に全国を駆けめぐり、やがては海外にまで足をのばすことになりました。
旅から戻った僕を、いつも温かく迎えてくれたのが渋谷の街でした。生まれ育った街が渋谷であり、いつでも帰って来られる場所でした。
しかし今ではすっかり様変わりしました。90年代になると渋谷はシブヤという表記が似合う街へと変貌したのです。
いつの頃からか、「渋谷系」を語ってほしいと言われ始めました。それは僕にとっては肯定と否定の相半ばすることでありました。誰が言い出したのか、いつから使われ始めたのかということすら、今もってはっきりとしないままです。また作り手側が率先して、自らを「系」とか「派」とかに閉じ込めるようなことはするはずもないことでした。
渋谷のスクランブル交差点に立って流れる車を眺めていたときです。道玄坂を下って交差点に入って来る車、宮益坂を降りて来る車、公園通りまで並んでいる車で溢れていました。まるで川の合流点にいるような錯覚。
なぜ渋谷は音楽の街になったのか、渋谷に流れる都市型ポップスを探ってみたい。そうすれば「渋谷系」の時代が突然出現したのでもなく、突然崩壊したのでもないことがわかるのではないか。
第1章の舞台は旧区役所通り、現在、公園通りと呼ばれるところです。60年代の若者文化の中心は新宿にあり、渋谷は文化の匂いが何もないサラリーマンの街と呼ばれていました。では、今の「カルチャーの発信拠点」という街のイメージが生まれる契機になったのは、何だったのか。
1964年、最初の東京オリンピックの前後に行われた再開発が、渋谷の街並みを大きく変え、渋谷を流れていた川は地下に潜って暗渠になりました。宇田川町から今のセンター街あたりまでを、井の頭通りに沿って川が流れていました。それが宇田川と呼ばれていたのです。その後、宇田川町には小さな輸入レコード店が密集し、90年代には「渋谷系」と呼ばれるブームの拠点となりました。通りの足下には今も渋谷の〝地下水脈〞が流れているのです。こうして渋谷の街は徐々に姿を変えていきました。
日本のロック、ポップスを育てた“磁場”
第2章の舞台は道玄坂です。日本のロックとポップスを育てた二つの拠点、BYGとヤマハを軸に語っていきます。71年4月に百軒店にオープンしたのはロック喫茶BYG。1階が玄米食レストラン、2階はジャズとロックのレコード喫茶、地下がライブハウスという店です。当時としては数少ない、ロックバンドもライブができる場所でした。
そしてもう一つは、道玄坂に66年にオープンしたヤマハ渋谷店。当時は、都内でも輸入レコードを取り扱う店はまだ少なかった頃です。ヤマハ銀座店と渋谷店はミュージシャンたちの溜まり場になっていました。70年代の渋谷では、西武とパルコの戦略によって、若者文化の重心は公園通りのほうに大きく移っていきました。しかし日本のロックやポップスの歴史に大きな役割を果たす“磁場”であり続けたのです。
第3章の舞台である宮益坂では、重要な役割を担っている坂の上の学校、青山学院について触れます。
青学には浜口庫之助から筒美京平という職業作曲家の系譜があります。そしてもう一つが、カントリーからフォーク、そしてロックへと至る系譜です。青山学院のキャンパスには、大学だけでなく中高一貫の中等部、高等部もありました。そこで生まれたミュージシャン同士の出会いもあります。林立夫、小原礼、浜口茂外也、後にキャラメル・ママ~ティン・パン・アレー、サディスティック・ミカ・バンドに至るミュージシャンたちの繋がりも、実は60年代末の青山学院の周辺を中心に生まれていたと言えるのです。もう一人、ムッシュかまやつの存在を忘れることはできません。スパイダースのソングライターとして多くのオリジナル曲を作り、「フリフリ」や「バン・バン・バン」は海外でも評価されました。
第4章では原宿セントラルアパートを軸とした、新しいライフスタイルの誕生に焦点をあてます。現在の代々木公園一帯には、かつて米軍関係者とその家族向けの住宅ワシントンハイツがありました。
米軍家族のための店、キディランドやオリエンタルバザールがオープンしたのは五〇年代初頭のことです。原宿一帯を変えるきっかけは、やはり64年の東京オリンピックでした。ワシントンハイツの返還に伴い、山手通りから青山通りまでを結ぶ道路が開通しました。その頃から徐々に広告の世界で活躍するカメ ラマンたちが、米軍関係者が引き上げた後のセントラルアパートに事務所を構えるようになっていきます。1階にあった珈琲店レオンからも数々の伝説が生まれています。
東京ネオアコシーンとロリポップ・ソニック
第5章では90年代の音楽シーンを生み出した若者たちに焦点をあてます。
80年代初期にラフ・トレードに影響を受け、そこから少数ではあったが東京ネオアコシーンを形成した若者たちがいたのです。僕がグループの一つ、ロリポップ・ソニックに出会うのは、89年のことでした。時代はまさにイカ天、ホコ天ブームの真っ最中、そうした騒ぎとは距離をとっていたネオアコバンドは、周囲に巻き込まれて疲弊していきます。
この章ではフリッパーズ・ギターのいた時代を検証し、さらに第6章内ではフリッパーズ・ギターの「恋とマシンガン」を、パンクの影響を受けた楽曲ではないかと分析しております。この章の後半では、その後の「渋谷系」の時代にも触れていきます。
この本の性格上、多くの音楽家、音楽関係者が登場しています。本文中においては敬称を略させていただきました。
渋谷を巡る50年史の探索はとても一人でできることではなく、予てから都市型ポップスについて意見交換や情報交換をしていた、柴那典さんと藤井丈司さんをお誘いしました。僕たちは、音楽シーンやブームが偶然沸き起こることではなく、それぞれ雌伏している期間があり、その中で切磋琢磨し精度を上げることによって噴き出てきたものであると確認しました。それは決して音楽シーンのことだけでなく、様々な文化面で、ファッションの世界でも起こっていることでした。
渋谷を通して、渋谷の向こう側の東京を、東京の向こう側にある都市を、都市の向こう側にある世界を描く、その試みの結果が『渋谷音楽図鑑』に結実したと思います。
僕はやっと自分史と音楽史を重ね合わせることができました。
次回「新たなる都市型ポップスの奔流」は6月30日更新!