第二章 人殺しの影 6 居場所はもうない(前編)

自分が死んだ場所に足を運び、少しずつ記憶が蘇ってきた徹生。しかし、肝心なところが思い出せない。会社に飛び込んで行った徹生は元上司の安西と話し合い、過去のことを話し始める。平野啓一郎さんの小説『空白を満たしなさい』が、3章までの限定公開です。

 工場に隣接する六階建ての会社のビルは、グレーの御影石調のタイルで覆われていて、社員からはよく「墓石っぽい」と冗談を言われていた。その壁面が、強い陽射しに照り耀いている。

 青空には、金属板を裁断し、加工するリズミカルな衝撃音が、絶え間なく響いている。窓は閉め切られているが、顔を上げていると、社員の何人かとは、すぐにでも目が遭いそうだった。中でみんな仕事をしている。徹生は、自分独りが置いてけぼりにされたような寂しさを感じた。

 元の上司に面会を求めるつもりだったが、ビルの前に立つと、先に、自分の死体が一体、どこで発見されたのかを知りたくなった。

 検案医の寺田の話によれば、正面ではなく、工場とは反対のビルの西側だという。人気のない場所で、歩くと窓のない壁に革靴の跫音が反響した。

 徹生は、視界の先に、自社製の工業用の塗料缶が一つ、ぽつんと置かれているのに気がついた。

 煙草の吸い殻入れだろうか? 近づいて中を覗いた彼は、息を呑んだ。小さいひまわりの花束が、乾涸らびて、缶の縁から首を垂れている。

 徹生は、それが何なのかを、すぐに理解した。無意識に口に手を当てて、その枯れた献花の周囲に目を凝らした。─ここで、自分は死んだのだ。彼は、踏んでいる場所を気にするように脇に避けた。コンクリートの地面は黒ずんでいるが、血痕らしい染みは、残っていなかった。

 ビルの屋上を見上げた。強い光が、彼を鋭く牽制した。目を強くしばたたいて、屹立するビルの屋上の縁に辛うじて視線を投げ掛けた。

『……あそこ、か。……』

 距離は瞬時に、落下の恐怖となった。何もない空中に身を置かれた刹那の戦慄が、鳩尾の奥から走った。無抵抗に次々と下へと場所を譲られてゆく。止まらない! 風が早口で何かをしきりに囁いている。耳を澄ます間もなく眼前に迫った地面。その瞬間、全身に轟いた凄まじい破裂音!……

 コンクリートの足許は、死そのもののように押し黙っている。しかし、息を凝らして見つめていると、そこにはまだ、三年前の衝撃で生じた時間の亀裂が、半透明の跡を留めているかのようだった。その罅から、新鮮な時間が漏れ出して、過去を映し出す溜まりを作っている。

 徹生は、膝を折られたように、その場にしゃがんで両掌で地面に触れた。3時14分に、ここで壊れた時計。どんな格好で横たわっていたんだろう? 俯せで、頬を地面に押しつけて? それとも仰向けになって、空を見上げていたのか? 頭の中身を飛び出させて、溢れ出す血を止める術もなく、……

 徹生は、生き返った時と同様の頭痛に見舞われた。その膨らみの内側で、何かが閃いている。……白い机。……5階の会議室。……窓からは、太陽の光が差し込んでいて、時計は、午後2時40分を回ろうとしている。死亡時刻の約三十分前だった。

「いやだ」という声が聞こえた。彼は卒然と立ち上がって、会社の入口へと駆け出した。

 思い出し始めている! 過去の空白に、徐々に記憶が満ちてきて、幾つかの光景が、思いがけずよく伸びた波のように、その面を洗った。

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空白を満たしなさい

平野啓一郎

cakesでもインタビューを行った、平野啓一郎さんの小説『空白を満たしなさい』(講談社)が、3章までの限定公開です。年間約三万人の自殺者が出るこの国で、生と死、そして幸福の意味を問う意欲作。平野さんの考えた概念「分人」をまとめたcak...もっと読む

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hiranok cakesの試し読みの続きです。【 5年弱前 replyretweetfavorite