六月の初めに届いていた〈お久しぶりです〉という一通のメールに、徹生はなんとなく、不穏なものを感じた。送信者の名前はなく、アドレスにも見覚えがない。
クリックすると、画面には色とりどりの絵文字が咲き乱れた。
〈ルビーのリナです。アドレス変更しましたので、ご登録をおねがいします。またお店に来て下さいね♪ 土屋さんの石沢ビール、この前、買いましたよ~☆ ウマシ〉
徹生は、一瞬、眉を顰めて、「あぁ、……」と思い出したように口を開いた。かなり前に一度、取引先の担当者と行ったキャバクラのホステスだった。
徹生は、キャバクラに行くと、いつも話が続かず、気まずい思いをするだけなので、自分からはまったく足を運ばなかった。しかし、このメールの送り主は、「缶詰マニア」を自称する変わった子で好きな番組は《タモリ倶楽部》だと言っていた、入れ替わり立ち替わり隣に座るホステスの中でも、唯一、しんとならずに済んだ相手だった。名刺を交換したものの、メールのやりとりは直後の一度きりで、顔ももうすっかり忘れている。よりにもよって、なんでこんなタイミングなのだろう!?
このメールも、当然、開封済みだった。千佳はこれを読んで、どう思っただろうか? キャバクラなんか興味ないと言っていたクセに。─そう思っただろうか? 一事が万事で、あれこれ妄想が膨らんで、浮気の一つも疑われたかもしれない。それこそ、まったくの事実無根だった。彼は、斜め上を向いてしばらく考え、首を落として溜息を吐いた。
自殺云々どころではなかった。死んでしまえば、こんな些細なこと一つ弁解できない。
徹生は、恐る恐るブラウザを開いて〈お気に入り〉の一覧に目を向けた。この深刻な時に、エロサイトのタイトルが、あまりにも無神経に目立っている。……これも見ただろうか? 見ただろう、きっと。……
千佳は必ずしも、そういうことにうるさい方ではなかった。しかし、〈癒乳の楽園〉にはさすがに引いたに違いない。こんな情けない言葉が、死後に、自分という人間の〝秘められた欲望〟を代弁するというのは、まったく以て悪夢だった。
千佳は胸が小さく、徹生はそんなことは全然気にしないと言っていた。それは本心で、それとこれとは、また別問題である。大体、〈巨乳の楽園〉ではなくて〈癒乳の楽園〉である。そっちの方がもっと気持ち悪いかもしれないが、とにかく、大きさの問題ではなかった。量より質というか。いやいや、そういうことでもなくて、……
徹生は気がつけば、目の前にいるわけでもない妻を相手に、そんなしどろもどろの言いわけをしていた。そして、キャバ嬢からのメールと併せて、それらのリンクもさっさと削除してしまおうとした。そして、慌ててキーボードの上で手を止めた。
これはしかし、自殺を否定する、情けなくも説得力に富んだ証拠ではあるまいか? 死ぬと決めていたのなら、こんなものは跡形もなく処分していたに違いない。千佳もむしろ、そう考えはしなかっただろうか? 自殺する人間が、自分の恥部に対して、こんなに無防備なはずがないと。
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