第二章 人殺しの影 5 開封された死(後編)

生き返った死者が他にもいるのか? パソコンで検索をかけてみると、膨大な数のヒットがあった。そんな膨大なヒットの中に、日本の検視・解剖について否定的な記事が見つかった。そこには日本は犯罪の見落としが多いという事実が書かれており、徹生はある決心をする。平野啓一郎さんの小説『空白を満たしなさい』が、3章までの限定公開です。

 六月の初めに届いていた〈お久しぶりです〉という一通のメールに、徹生はなんとなく、不穏なものを感じた。送信者の名前はなく、アドレスにも見覚えがない。

 クリックすると、画面には色とりどりの絵文字が咲き乱れた。

〈ルビーのリナです。アドレス変更しましたので、ご登録をおねがいします。またお店に来て下さいね♪ 土屋さんの石沢ビール、この前、買いましたよ~☆ ウマシ〉

 徹生は、一瞬、眉を顰めて、「あぁ、……」と思い出したように口を開いた。かなり前に一度、取引先の担当者と行ったキャバクラのホステスだった。

 徹生は、キャバクラに行くと、いつも話が続かず、気まずい思いをするだけなので、自分からはまったく足を運ばなかった。しかし、このメールの送り主は、「缶詰マニア」を自称する変わった子で好きな番組は《タモリ倶楽部》だと言っていた、入れ替わり立ち替わり隣に座るホステスの中でも、唯一、しんとならずに済んだ相手だった。名刺を交換したものの、メールのやりとりは直後の一度きりで、顔ももうすっかり忘れている。よりにもよって、なんでこんなタイミングなのだろう!?

 このメールも、当然、開封済みだった。千佳はこれを読んで、どう思っただろうか? キャバクラなんか興味ないと言っていたクセに。─そう思っただろうか? 一事が万事で、あれこれ妄想が膨らんで、浮気の一つも疑われたかもしれない。それこそ、まったくの事実無根だった。彼は、斜め上を向いてしばらく考え、首を落として溜息を吐いた。

 自殺云々どころではなかった。死んでしまえば、こんな些細なこと一つ弁解できない。

 徹生は、恐る恐るブラウザを開いて〈お気に入り〉の一覧に目を向けた。この深刻な時に、エロサイトのタイトルが、あまりにも無神経に目立っている。……これも見ただろうか? 見ただろう、きっと。……

 千佳は必ずしも、そういうことにうるさい方ではなかった。しかし、〈癒乳の楽園〉にはさすがに引いたに違いない。こんな情けない言葉が、死後に、自分という人間の〝秘められた欲望〟を代弁するというのは、まったく以て悪夢だった。

 千佳は胸が小さく、徹生はそんなことは全然気にしないと言っていた。それは本心で、それとこれとは、また別問題である。大体、〈巨乳の楽園〉ではなくて〈癒乳の楽園〉である。そっちの方がもっと気持ち悪いかもしれないが、とにかく、大きさの問題ではなかった。量より質というか。いやいや、そういうことでもなくて、……

 徹生は気がつけば、目の前にいるわけでもない妻を相手に、そんなしどろもどろの言いわけをしていた。そして、キャバ嬢からのメールと併せて、それらのリンクもさっさと削除してしまおうとした。そして、慌ててキーボードの上で手を止めた。

 これはしかし、自殺を否定する、情けなくも説得力に富んだ証拠ではあるまいか? 死ぬと決めていたのなら、こんなものは跡形もなく処分していたに違いない。千佳もむしろ、そう考えはしなかっただろうか? 自殺する人間が、自分の恥部に対して、こんなに無防備なはずがないと。

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空白を満たしなさい

平野啓一郎

cakesでもインタビューを行った、平野啓一郎さんの小説『空白を満たしなさい』(講談社)が、3章までの限定公開です。年間約三万人の自殺者が出るこの国で、生と死、そして幸福の意味を問う意欲作。平野さんの考えた概念「分人」をまとめたcak...もっと読む

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ayimamay39 ゆにゅうを変換したら一発目に「癒乳」って出て来て、平野啓一郎の小説「空白を満たしなさい」に登場したエロサイト「癒乳の楽園」が実在するのか検索した事を思い出しました。ありませんでした😒 https://t.co/I7DArvGNNq 1年以上前 replyretweetfavorite

hiranok cakesの試し読みの続きです。【 5年以上前 replyretweetfavorite