堂島製缶がある工場町方面行きの市バスは、千光湖のバス停で、老婆を一人乗せたところだった。ドアが閉まりかけた時、突然、後方の死角から、汗だくの大男が、車体を揺らすような勢いで駆け込んで来た。
乗車口近くに座っていた徹生は、その姿を目にするや、覚えず椅子から飛び上がった。
『佐伯!』
男は、整理券を毟り取ると、緊迫した目つきの徹生を睨み返した。佐伯じゃない。背格好こそよく似ているが、顔はまったくの別人である。徹生は、誤作動した警報のような心拍に煽られたまま、すとんと腰を下ろして、窓の外に目を遣った。男は、不審らしく徹生を見下ろしながら、前方の席に移動した。
バスが動き出してからも、徹生の脳裡には、金曜日の夜、千佳が怯えた表情で口にした、あの「また殺しに来るかもしれない。」という言葉が反響していた。
真相を明らかにするために、徹生は、週明けすぐにでも、会社に行くつもりだった。が、月曜日の朝になると、どうしても居間のソファから起きられなくなって、結局、水曜日の今日まで家に籠もっていた。
自分自身の重みに、押さえ込まれているかのようだった。風邪だろうかと疑ったが、熱もなく、午後になると楽になるので、ひょっとすると、死の後遺症なのではないかと考えていた。
しかし、今し方、あの汗だくの大男を目にした時の慌てようからして、それはむしろ、恐怖だったのかもしれない。佐伯が犯人なら、再会は実際、大きな危険だった。それを、頭よりも体の方が敏感に察して、必死で引き留めようとしていたのではないだろうか?
千佳は、自らを奮い立たせようとする徹生に、「まだゆっくりしてたら。無理しないで。」と、背中から宥めるように声をかけた。
徹生が今日、家を出られたのは、そんなふうに心配する彼女を、却って安心させたかったからだった。少しずつでも、自分らしさを回復したかった。彼女に愛され、頼りにされる自分に、一日でも早く戻りたかった。
『佐伯にしたって、せっかく自殺に見せかけて殺したんだ。出会したとしても、いきなり人前で、襲いかかって来たりはしないだろう。逆に逃げられるだろうか? みんなが見ている前で、こっちから問い詰めるべきだろうか?……』
車窓に顔を寄せた徹生は、晴れ亘った空の色に染まる千光湖を眺めた。
その名の通り、千々に光を灯す湖の面を、赤い嘴の黒鳥が、ゆっくりと分けて進む。あとには、左右に開いた波が、巨大なファスナーのように、末広がりにどこまでも伸びている。
何か神秘的な大きな力が、指先で摘んで、静かに引っぱっているファスナー。たった一度の死で、永遠に命を失ってしまう。そんな理不尽な世界は、あそこから徐々に捲れていって、その下からは、今この瞬間にも、まったく新しい奇跡の世界が姿を現そうとしている。そんな想像が膨んだ。自分は、あの眩しさの中から生還したのではないだろうか? 対岸の桜並木の新緑のように、この新しく出現しつつある世界では、人間は何度死んでも、その都度瑞々しく再生するのではあるまいか。……
金曜日の夜の千佳との話し合いのあと、徹生は、自分の遺品が収められた段ボール箱を開封していた。何か自殺に見せかけた殺人の証拠が見つかるかもしれないと期待しながら。