彼の手がけた地ビールの発売はGW直後で、この頃にはもう、売上げの初動についての朗報が届いていた。前日は外回りをしていて、この日は、一日中会社にいたらしい。が、そのからっぽのマス目をどれほど凝視しても、何も思い出せなかった。
「……わからない。頭のどっかにまだその記憶が残ってるのかさえも。あったとして、どこにそれがあるのか。……どこを目がけて意識を集中させたらいいのか。完全に空白なんだよ。……」
千佳は、虚ろな目でテーブルを見ながら言った。
「わたしは、……覚えてる。その日のこと。いつもみたいに、駅のお土産物売場で、梅のお饅頭と羊羹売ってた。てっちゃんと初めて会った時みたいに。……急に携帯に電話がかかってきて、出たら警察の人で。とにかくすぐに水尾署まで来て欲しいって。……即死だったからって、病院にも運ばれなくて、……わたしそのことで、すごく怒ったから。……」
徹生の脳裡には、救急隊員や警察に、無造作に扱われている自分の遺体が思い浮かんだ。映画やドラマの継ぎ接ぎらしい、そのニセモノの光景の中で、彼は目を瞑って、血を流しながら横たわっている。そこには、訃報を聞いて立ち尽くす千佳の姿も見えた。帰宅した日のように呆然としていただけなのか、パニックに陥っていたのか。……
徹生は、胸を切り裂かれるような痛みに顔を歪めた。そして、とにかく、ただ信じて欲しい一心で、まっすぐに妻の目を見据えて言った。
「千佳、……俺は自殺はしてない。俺は、そんな人間じゃない。知ってるだろう?」
「……。」
「結婚して、家も買って、子供も出来て、俺にとっては、人生で一番幸せな時だった! ウソじゃない。本当にそう感じてたんだ。本当に。そんな俺が、なんで自分で死ななきゃいけない?」
「それがわからなかったから、苦しかったんじゃない。……ずっと辛かった。わたし、もう涙、出ないの。」
「……どういうこと?」
「わからない。今だって泣いてる。でも、出ないの、涙。一滴も。」
徹生は、愕然として千佳の顔を見守った。
「わたしだって、てっちゃんが自殺するなんて夢にも思ってなかった。誰も想像してなかった。でも、現実として突きつけられれば、受け容れるしかないでしょう。他に何が出来る? 責める前に教えて。」
「責めてるんじゃないよ。責めてるんじゃない。ただ、俺を信じてほしいんだよ。俺は、妻と子供を置き去りにして、自殺するような人間じゃない。絶対に違う! 千佳と璃久は、俺にとってこの世の中の何よりも大事なんだから。」
「そう信じてても、……自殺したって言われたら、考えるでしょう? どうして気づいてあげられなかったのかって、……側にいた自分が情けなかった。わたしのせいかもしれないって自分でも責めたし、……自分だけじゃなくて、……」
千佳は、その先を続けることが出来なかった。
「酷いことを言われたのか、人から?」
千佳は、反射的に顔を背けて、静かに一度、目を瞑った。
「お母さんが酷いのは、今に始まったことじゃないから。でももう、いいの。てっちゃんのお葬式以来、会ってないし。」
「まったく? この三年間?」
「いいの、もう。……いい。会いたくないから。」
徹生は、千佳のこんなに険しい表情を初めて目にした。何があっても、決して笑顔を絶やさなかったあの千佳が。……
確かに、三年経っているのだと、彼は痛感した。さもなくば、人がこんなに変われるはずがなかった。
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