第一章 生き返った男 4 俺はそんな人間じゃない!(前編)

妻の千佳から自らの死について話を聞かされている徹生。次々と新しい事実を知り困惑する徹生は、千佳のある言葉を聞き手帳を捲る。ある日を境にして真っ白になったカレンダーを目にして、不思議な気持ちを抱くことに。平野啓一郎さんの小説『空白を満たしなさい』が、3章までの限定公開です。

「自殺するほど悩んでたことがあったんだったら、そんなに苦しかったのなら、どうして話してくれなかったの? わたしにも言えないようなこと? それとも、……わたしだから言えなかったの? わたしが原因? お願いだから、大丈夫だから、正直に話して。てっちゃん、それを伝えに戻ってきたんじゃないの?」

「冗談じゃない! なんで俺が自殺なんかしなきゃいけないんだよ!」徹生は、ようやく引き攣ったような顔で言った。「誰がそんな馬鹿なことを?」

「警察。」

「警察は転落死って言ってるんだろう?」

「転落死で、事件性はない。だから、事故か、自殺かのどっちかだって。」

「で、何で自殺になるんだよ? 事故死も不自然だけど、自殺なんて、もっとヘンだよ。考えたこともない。大体、証拠は?」

 千佳は黙って立ち上がると、食器棚の引き出しの一つを漁った。

 取り出してきたのは、徹生の黒い手帳だった。もう何度となく見返しているらしく、手の中で、誰かが手伝っているかのように、勝手にメモのページが開いた。

 千佳の面は、赤らんだ目だけを残して蒼白になった。徹生の顔を見て、もう一度、その箇所に目を落とすと、口を強く結んで彼の前に差し出した。

 ページの真ん中には、罫線を何段も跨いで、ただ一言、「いやだ」と記されていた。

 一画一画から、歯軋りの音が聞こえてくるような字だった。何かに対して懸命に抵抗している。しかも発せられるや、すぐに否定されたらしく、その言葉は、激しく往復する線で、塗り潰されていた。

 強い筆圧を留めた紙は、どこか人肌のようで、ページを捲ると、その下にも、更にその次のページにも、「いやだ」という叫び声の谺が響いていた。

 彼は、黒いボールペンで記されたその文字に指で触れてみた。三年経っても、押しつけられたペン先のあとは、まだ減り込んだままである。

 人間は噓を、決してこれほどの力で書ききることは出来ないだろう。どの一画にも躊躇うところがなかった。本心を試され、それを、あらん限りの力で証そうとしているかのように、緊迫していて、必死だった。

 徹生は、体の深いところから、暗い戦慄が湧き起こってくるのを感じた。

「……何がいやだった?」

 千佳は、手帳を見つめる徹生に尋ねた。

「三年間、わたし、ずっと考え続けてきた。仕事のこと?」

「違う。」

「やっぱり、わたし?」

「違うよ!」

 徹生は、強く否定した。

「何言ってるんだよ! 大体、これが遺書? こんなの、……いや、違う、俺、書いてないよ! 俺の字じゃない! こんな、……おかしいと思わなかった? 俺の字?」

「てっちゃんの字に見えた。」

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes・note会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

ケイクス

この連載について

初回を読む
空白を満たしなさい

平野啓一郎

cakesでもインタビューを行った、平野啓一郎さんの小説『空白を満たしなさい』(講談社)が、3章までの限定公開です。年間約三万人の自殺者が出るこの国で、生と死、そして幸福の意味を問う意欲作。平野さんの考えた概念「分人」をまとめたcak...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

hiranok cakesでの試し読みの続きです。【 5年弱前 replyretweetfavorite