1982年12月20日、原宿・表参道交差点から明治通りを新宿方面へ500メートル程進んだ、当時は閑静な住宅街だった場所に突如現れたピテカントロプス・エレクトス——通称〝ピテカン〟。「日本初のクラブ」とも「80年代の鹿鳴館」とも言われるこの店をプロデュースしたのは、コント・ユニット=スネークマン・ショーのメンバーとして知られていた桑原茂一。また、設立のコンセプトに深く関わったのが、バンド=メロンの中西俊夫だ。そして、中西こそは、原宿というある意味で第二次世界大戦後の日本を象徴する土地に、次の展開をもたらしたアーティストだった。
「人生で大事なことはほとんどレオンで学んだ」
中西俊夫は70年代の中頃——彼にとっては20歳前後の若き日々をそう振り返る。
「夢の実現の仕方とか、何が粋で何が粋じゃないかとか、(引用者注:そこに居たのは)皆、自由業のひとだったので、どう仕事に繋げるとかね。皆、レオンのピンク電話を事務所のように使っていた」(*)*70’s 原風景 原宿——リレーエッセイ 思い出のあの店、あの場所 Vol.7 中西俊夫『レオン』
レオンは、表参道交差点にあった共同住宅=セントラル・アパート1階の喫茶店である。前述したように、同施設は58年に竣工、<ワシントン・ハイツ>に程近い立地もあって、当初は米軍関係者に向けて部屋を貸し出していたが、東京オリンピックの頃から日本のメディア、ファッション、音楽関係の仕事に携わる入居者が増え、この国のサブカルチャーの拠点と化していった。そして、レオンもまた、上階に事務所を構えるクリエイター達の打ち合わせ場所として重宝されると共に、原宿というフロンティアに惹かれた若者達の溜まり場となっていったのだ。
56年、渋谷区広尾に生まれた中西も、セツ・モードセミナーに入学したものの、1年後にはレオンに入り浸る生活を送っていた。彼は同店を、1885年の開店以降、長らくパリの文化の発信地だったカフェ・ド・フロールになぞらえて言う。
「学校よりレオンの方が面白い[…]原宿の街全体がアートスクールみたいなもんで[…]実際、(引用者注:レオンに)行けば誰かいるし、話題も出たばかりの向こうの雑誌とか、イケてる髪型とか、映画とかデヴィッド・ボウイのこととか多岐に渡った。本当にカフェ・ソサエティだったね。だって一日中たむろって、表参道の人々のファッション・ショーを見てるんだもの」(*)
*70’s 原風景 原宿——リレーエッセイ 思い出のあの店、あの場所 Vol.7 中西俊夫『レオン』
そのようなレオンには、当然、最先端の情報も集まった。例えば、中西がセックス・ピストルズの名前を知ったのもこの店だ。ある日、ファッション・デザイナーの中野裕通に「この人たち、すごいのよ」(*)と教えられた彼は、すぐさま、セントラル・アパートから程近い竹下通りにあった、ロンドンのサブカルチャーに精通した古着屋・赤富士で、輸入されたばかりの「アナーキー・イン・ザ・UK」の7インチ・シングルを購入、衝撃を受けている。
*中西俊夫『プラスチックスの上昇と下降、そしてメロンの理力』(K&Bパブリッシャーズ、13年)
そして、中西がレオンで繰り広げていた仲間たちとの取り留めのないお喋りは、徐々に実体を持ち、76年、バンドに結実する。メンバーはやはり同店の常連だったグラフィック・デザイナーの立花ハジメや、スタイリストの佐藤チカ等。
バンドは、彼らが出入りしていたイラストレーター=ペーター佐藤のスタジオにあったプラスティックのオブジェから取って、〝プラスチックス〟と名付けられた。そのアーティフィシャルなコンセプトはいわゆるニュー・ウェーヴに先駆けており、実際、バンドは瞬く間に先鋭的な存在として注目される。桑原茂一は初期のライヴの最前列で、レコーダーをぶら下げ、ステージにマイクを向けていた追っ掛けだったという。やがて、彼はプラスチックスのマネージメントを手掛けるようになる。
中西はプラスチックスを「レオンから出たバンド」(*)だと定義する。そして、彼がもうひとつ、同じ出自のバンドとして挙げるのがクールスである。
*中西俊夫『プラスチックスの上昇と下降、そしてメロンの理力』(K&Bパブリッシャーズ、13年)
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。