自由を生み出す究極の普通
ところがここで、ひとつの矛盾が起きてきます。
それは、個性的であろうとすればするほど、世の中には個性的な人だらけになって、逆に目立たなくなってしまうというという矛盾。
全員が灰色の制服を着ている中でひとりだけ真っ赤な私服を着ていれば目立ちますが、全員がめいめいに派手な原色の服を着ていたら、その中で真っ赤な服を着ていてもまったく目立ちませんよね。そういうことが起きてしまったのです。
それでも個性的であろうとすると、たとえばピアスを特別なものに変えたり、アクセサリーに凝ったり、細かいディテールの違いに入っていかざるをえません。でもこれで「わたしは個性的です」と主張されても、他人にはどこが個性なのかわかりにくい。
この状況を先ほどの文書「ユースモード」は、マスインディーということばで表現しました。個性的であること、独自であることが、マス(大衆)になってしまうのだという意味です。
もはや独自で個性的であることは、意味はないということなのです。だから「ユースモード」は、個性的である必要なんてない、普通で良いのだと訴えました。
これこそが、ノームコアの哲学です。
抑圧されている時代には、抑圧から解放されることに意味がありました。
「国王の絶対的支配から解放されたい」
「奴隷であることから解放されたい」
「封建的な制度から解放されたい」
「灰色の制服を着せられていることから解放されたい」
「学校の規則から解放されたい」
しかしこういう解放は、先進国ではかなりの部分が実現しました。もちろん局所的には抑圧はたくさん残っています。さらには日本の非正規雇用の問題に象徴されるように、解放が自由をもたらさず、不安だけを押しつけているという状況も引き起こしています。これは自由であるということの根本的な問題で、解放すればすべてが解決するのではないということを端的に示しているのです。
つまり、解放は目的ではない。解放されても問題は解決しないことがわかってしまえば、解放は目的にならないことが認識されてしまう。
アンソニー・ギデンズという英国の社会学者は、20世紀の後半以降はこれが最大の問題になっていると指摘しています。彼は、政治もこの影響を大きく受けるのだと言っています。抑圧が多かったころは、解放を目的にすれば良かった。それをギデンズは「解放のポリティクス(政治)」と呼びました。
しかし解放のポリティクスは、21世紀のいまはもはや有効ではありません。ギデンズはこれからは、わたしたちはどう他の人たちと関係をつくり、どう環境と向き合い、自分自身をどうつくっていくのかということが議論されていく時代になると言っていて、これをライフポリティクスと呼んでいます。「生活の政治」「生命の政治」というような意味です。
新たな共同体の再興
ノームコアの哲学も、ギデンズのライフポリティクスと同じメロディを奏でています。
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