マンションの4階で、エレベーターのドアが開くと、隣の家の〝カプチーノ〟というチワワが、尻尾を振りながら駆け寄ってきた。
「おお! 元気だったか!?」
徹生は、思わず声を弾ませた。彼にとっては数日ぶりの再会だが、実際には三年経っている。動物相手だからなのか、そのギャップの計算が、この時には自然と感情に結びついた。しゃがみ込むと、よしよしと顎の下を指でくすぐり、頭を撫でてやった。
璃久は、天敵を目にするなり、「うえっ、」と尻から後退って千佳の足にぶつかった。
「ん? りくはいぬがこわいの? こんなちっちゃいのに。かわいいよ、ほら。」
淡い茶色い毛に覆われたカプチーノの白い顔は、その名の通り、コーヒーカップにきめ細やかに泡立つミルクに、ココアパウダーで描かれているかのようだった。
千佳は、いつものことという感じで、「だいじょうぶ。おとうさんがちゃんとおさえてくれてるから。」と促した。
璃久は、千佳の尻を楯のように自分の前に構えて、廊下の壁に貼りつきながら忍び足で歩いた。その間、一瞬たりともカプチーノから目を離さなかった。
徹生は、千佳のそのさりげない「おとうさん」という一言に、表情を明るくした。そして、息子のあまりのへっぴり腰に苦笑した。
カプチーノは、徹生の太ももに爪を立てて前足を乗せていたが、いつものように吠え散らすわけではなく、どことなく生気のない目で、長い舌から澄んだよだれを滴らせていた。
徹生の手は、既にそのよだれ塗れになっていた。そして、鼻を突いたその異臭に、吐き気を催しそうになった。
「お前、何食べたんだ? ん? モテないぞ、こんな口臭じゃ。」
徹生は、カプチーノの眉間を親指で撫でてやりながら顔を覗き込んだ。
やがて、「カプちゃん、……こっち。」という声がした。ドアから顔だけを覗かせている隣の奥さんに、徹生は軽く頭を下げた。初めて彼と再会した彼女は、よろよろしながら戻ってきた飼い犬を抱き上げると、逃げ隠れるようにドアを閉ざした。
「……またビックリさせちゃったよ。」
自宅の鍵を探す千佳は、歩み寄ってきた徹生に、 「手、洗わないとね。」と言った。
「すごい悪臭だよ。どうしたのかな?」
「歯槽膿漏だって。言おうと思ったんだけど。」
「歯槽膿漏? 犬にもあるの、そんなの?」
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