第一章 生き返った男 3 妻が明かす事実(前編)

徐々に自分の記憶から3年経っていることを実感する徹生。近所の犬、部屋の中、そして実の子どもである璃久が、その変化を強く意識させた。3年前との違いを感じながらも、3人で囲う食卓に懐かしい暖かみを感じていた。平野啓一郎さんの小説『空白を満たしなさい』が、3章までの限定公開です。

 マンションの4階で、エレベーターのドアが開くと、隣の家の〝カプチーノ〟というチワワが、尻尾を振りながら駆け寄ってきた。

「おお! 元気だったか!?」

 徹生は、思わず声を弾ませた。彼にとっては数日ぶりの再会だが、実際には三年経っている。動物相手だからなのか、そのギャップの計算が、この時には自然と感情に結びついた。しゃがみ込むと、よしよしと顎の下を指でくすぐり、頭を撫でてやった。

 璃久は、天敵を目にするなり、「うえっ、」と尻から後退って千佳の足にぶつかった。

「ん? りくはいぬがこわいの? こんなちっちゃいのに。かわいいよ、ほら。」

 淡い茶色い毛に覆われたカプチーノの白い顔は、その名の通り、コーヒーカップにきめ細やかに泡立つミルクに、ココアパウダーで描かれているかのようだった。

 千佳は、いつものことという感じで、「だいじょうぶ。おとうさんがちゃんとおさえてくれてるから。」と促した。

 璃久は、千佳の尻を楯のように自分の前に構えて、廊下の壁に貼りつきながら忍び足で歩いた。その間、一瞬たりともカプチーノから目を離さなかった。

 徹生は、千佳のそのさりげない「おとうさん」という一言に、表情を明るくした。そして、息子のあまりのへっぴり腰に苦笑した。

 カプチーノは、徹生の太ももに爪を立てて前足を乗せていたが、いつものように吠え散らすわけではなく、どことなく生気のない目で、長い舌から澄んだよだれを滴らせていた。

 徹生の手は、既にそのよだれ塗れになっていた。そして、鼻を突いたその異臭に、吐き気を催しそうになった。

「お前、何食べたんだ? ん? モテないぞ、こんな口臭じゃ。」

 徹生は、カプチーノの眉間を親指で撫でてやりながら顔を覗き込んだ。

 やがて、「カプちゃん、……こっち。」という声がした。ドアから顔だけを覗かせている隣の奥さんに、徹生は軽く頭を下げた。初めて彼と再会した彼女は、よろよろしながら戻ってきた飼い犬を抱き上げると、逃げ隠れるようにドアを閉ざした。

「……またビックリさせちゃったよ。」

 自宅の鍵を探す千佳は、歩み寄ってきた徹生に、 「手、洗わないとね。」と言った。

「すごい悪臭だよ。どうしたのかな?」

「歯槽膿漏だって。言おうと思ったんだけど。」

「歯槽膿漏? 犬にもあるの、そんなの?」

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空白を満たしなさい

平野啓一郎

cakesでもインタビューを行った、平野啓一郎さんの小説『空白を満たしなさい』(講談社)が、3章までの限定公開です。年間約三万人の自殺者が出るこの国で、生と死、そして幸福の意味を問う意欲作。平野さんの考えた概念「分人」をまとめたcak...もっと読む

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hiranok cakesでの試し読みの続き。【 5年弱前 replyretweetfavorite