「天才は盤を見た瞬間に最善手が浮かんでくる」ものだ。
これは、私にいわせれば、文系ならではの特徴である。
読む能力とか計算能力とかいうものは、理数系の思考がモノをいうが、見た瞬間にいちばんいい手が浮かんでくるのは、自分の心の持ちようとか、そのときの精神、肉体状態のなせる業だと私は思っている。計算ではない。むろん、あとで計算できるし、実際にするのだが、私は直感を重視している。羽生善治さんが「直感の七割は正しい」といっているのなら、私は「九割は正しい」と信じている。
指し手を選ぶ際、私は盤面を景色としてみつめる。すると、
「もっとも美しい形となるのはこの手である」
という手が瞬時に浮かんでくる。
これは文系の人間の捉え方だと思うのである。理系の人間であれば、パッと浮かぶのではなく、実験に実験を重ねて、計算に計算を重ねて正解にたどりつこうとするのではないだろうか。
むろん、羽生さんだったら最善の手が盤を見た瞬間に浮かぶに違いない。けれども、彼が文系かといえば、必ずしもそうともいいきれないようなのである。
羽生さんと私のもっとも大きな違いは、研究の量だといっていい。そして、研究の量は彼のほうが圧倒的に多い。
私が将棋を覚えたのは小学生のときだったが、昔は参考になる本はなかったし、一緒に研究したいと思っても相手がいなかった。いたとしても簡単にはみつからなかった。だからひとりでいろいろ考え、駒を動かしているうちに、気がついたら強くなっていた、という感じだった。羽生さんにそう話したら、
「じゃあ、加藤先生はいつ勉強したんですか?」
と驚かれたことがあったけれど、これは私くらいの年代までの棋士に共通するところだと思う。
対して羽生さんは、私に「いつ勉強したんですか?」と聞くほどだから、ずいぶん勉強したに違いない。道場にもかなり通ったというし、そもそも研究するための環境は、私の時代とは隔世の感がある。先に私は羽生さんを「秀才型の天才」と評したが(『羽生善治論』第1章)、小さいころからずっと研究を続けてきたことで、彼には研究が習慣として身についているはずである。
こういう態度は、理系のアプローチの仕方であろう。その意味で彼は、多分に理系の要素を持っているといえるのではないかと私は思うのだ。
羽生善治の「強さ」を根底から支えるもの
閑話休題。
羽生さんは、研究を通して過去の将棋の長所をすべて身につけたわけだが、だからといって、彼はその将棋をそのまま指しはしない。
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