岡林信康の歌で圧倒的に受けていたのは「友よ」だろう。
最初のアルバム『私を断罪せよ』の最後にこの曲は収められている。歌い出す前に岡林はひとり語っている。(当時のフォークソングコンサートで、こういう独白はよく聞いた)。
その言葉を忠実に再現してみる。
「えー、僕の最初の、エルピーを、聞いてくださって、心から感謝いたします。あの……、エ、エルピーなんぞ出すとゆうとなんかレコード歌手とゆうことで、えーっ、ちょっとかっこいいんですけど、あのーどうっちゅうことないわけで、僕自身の、その、要するに、うめきや、そういう………なんか知りませんけどそういうもんを、歌にして、あらわしたっていうだけ。そやからあのーみんなーももっと歌い…ださなあかんとおもいますし、あのー、黙ってることはないとおもうんです。で僕の歌、暗い歌が多いんですけど、やっぱり僕なりに、あの、いまぁ、僕はその、健康的な明るい歌ってな歌えへんような心理状態でありまして、あの、うめきで、僕自身は、いいとおもうんです。で、みんなもどんどん歌いだして欲しいとおもうんです……」
LPレコードを出すに至った自負と照れが出ていて、ぼそぼそっとした独白が魅力的である。私の高校のときのツレの喋りにすごく似ている。京都の高校生や大学生の〝頭がええけどゆっくりした子〟は、なんか、こういう喋りかたをしてました。エルピーはLPと書くべきなのだろうけれど、岡林の「大阪弁ではない関西言葉」(私にはどうしても京都言葉に聞こえる)を聞いているとどうしても、エルピーと記したくなる。(岡林信康は滋賀県の出身で、京都人は滋賀は完全に京都文化圏だとおもいこんでしまうが(私がだけれど)、滋賀と京都はおそらく別のエリアのはずである)。
この岡林信康のセリフに、当時の関西フォークの心情がストレートに出ているとおもう。「みんなももっと歌い出さなあかんとおもいますし、黙ってることはないとおもうんです」と、彼らは本気でおもっていたのである。プロでない人も、みんな、歌たらええねん、と真剣に考えていた。自分の言葉でみんな歌おうと呼びかけ、気取らんでええ、みんなの地言葉(方言)で歌たらええんや、と訴えていたのだ。
それはしかし、抗議しよう、社会運動をしよう、という呼びかけではない。いま、その場で、その気持ちを歌にしよう、という呼びかけである。たまたま、それが当時の抗議運動とシンクロしただけなのだ。
この岡林信康の初LP『断罪せよ』も、社会に対する抗議ばかりを歌っているわけではない。
いろいろな歌が入っている。60年代らしい抜けた青空のような明るい曲もある。
最初の曲「今日を越えて」がそうだし「カム・トゥ・マイ・ベッド・サイド」「それで自由になったのかい」などがポップな曲調である。アメリカぽい。私がいま聞くかぎりは「明るいボブ・ディラン調」に聞こえる。あらためて、この人はボブ・ディランがすごい好きなんだなあ、と嘆息してしまうくらいに、ボブ・ディラン〝オマージュ〟の曲が並んでいる。ディランがフォークからロックへと転向したころの『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』(1965年3月)、およびその次の『追憶のハイウェイ61』(同年8月)の雰囲気にそっくりである。そういうエルピーを作りたかったのだろう。
岡林信康には、最初から「土俗的な日本語の日本的なフォークソング」と「フォークロック調の明るいボブ・ディランのような歌」の両方があったのだ。
このロック調の軽快な歌には、それほどの注目が集まってなかったのだろう。
「山谷ブルース」に「お父帰れや」「モズが枯木で」「手紙」は圧倒的に支持された。日本的で土俗的なこれらの歌は、伴奏なしに多くの人が歌うのに向いていた。だから受けた。
岡林信康が憧れていた(と推察する)『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』ごろのボブ・ディランは、フォークソングファンに強く批判されていた。そういうことになっている。
それまでギター一本で反抗歌(プロテストソング)を歌う反体制歌手の代表だとおもわれていたボブ・ディランは、1965年7月のニューポートのフォークソング・フェスティバルで、エレキギターとバックバンドをひっさげて登場し、大音響でロックミュージックを奏でた。みんなで静かなフォークソングを合唱して、市民運動の盛り上げにもつなげたいと考えていた人たちに(←私が勝手に想像した観客像ですが)、大きな反感を買った。観客からブーイングを浴び、いったん引っ込んだあとにフォークギター一本だけで再登場して「イッツ・オールオーバー・ナウ、ベイビー・ブルー」を涙ながらに歌った、という伝説が残っている。昔からのフォークファンは、エレキギターもロックも認めなかった、という伝説である。
いまではこの伝説のいくつかの細部は否定されているのだが、しかしずっとこういうふうに伝えられていた。だから真実を越えて、この伝説じたいに意味がある。岡林も、3年前のそういう伝説をふまえて、このLPを作ったのではないかと、いまの私にはおもえる。
裏切り者あつかいされたディランは、以前にも増してかっこよくなっていった。岡林信康は、そのロック転向後のディランが、たぶん、大好きなのである。
岡林自身も、やがて裏切り者と呼ばれるだろうと予感していたのではないか。先人たちのそういう指摘があるが(『日本フォーク私的大全』『日本のフォーク完全読本』)あらためてデビューアルバムを聞くと、たしかにそういう空気を感じてしまう。
「友よ」はみんなに歌われた。
大学闘争も全共闘も、その実情を何も知らない1970年の中学一年生も歌っていた。
闘争や運動のなかで、みんなでよく合唱したという。
しかし、その事実をずいぶん後年になって知ったとき、私はなぜこんな叙情的な歌を闘争の場で合唱したのだろうか、と不思議におもった。
闘いの場なのだから、もっと場を盛り上げる歌がいいのではないか、ということだ。
1970年の中学生の疑問だとおもってもらっていい。
「友よ」は暗い。闘志を掻き立てるような歌ではない。どちらかというと沈んでる人に響く歌だとおもう。それが闘争の場で歌われていたのが、私にはよくわからないのだ。
闘争の現場を知らないからそんなことが言えるのだと言われればそのとおりである。知らないから言っている。
映画『明日に向かって撃て』(1970年日本公開)のラストシーン、主人公のならず者二人が追い詰められ包囲されるているとき、ここを抜けだして次はオーストラリアに行こう、あそこはいいところだ、と語り合っているシーンをおもいだしてしまう。言葉は前向きだが、じつはもうどこかでだめだとおもっている。そういう気分である。
「友よ」の歌詞を、大束に言ってしまえば、〝いまはとてもつらい状況だが、もう少しすれば事態は好転するとおもう。希望を持とう〟というものである。
たしかに、未来に希望を抱いている内容に見える。
しかし、これはどちらかというと慰撫の歌だろう。
失恋した友人に声をかけるような内容だ。
〝いまはつらいだろうが、耐えれば、やがていいこともあるさ〟
「友よ」はそういうふうに聞くことができる。
失恋してつらいだろうが、また別のいい人に出会えるよ(もしくは、恋愛以外でのいいことがあるよ)、前を向こう、そういう歌だと捉えることができる。とりあえず、今はだめだ(恋は破れた)ことを認めるところから始まっている。
負けた。でも進め。
そういう歌である。「友よ」は敗者に向けた歌ではないか、とあらためておもう。
もともと、中学一年には、まっとうな失恋などできない。
ひそかに好きな子がいて、ひそかに恋をして、ただ盗み見るように見つめるだけで、何もできず、何の接点も進展もないまま、ただじっと想っているが、あるとき、ふっと、これはもうだめだといきなり絶望してしまい、あきらめてしまう。
そういう失恋である。そのひとりよがりの心の動きを失恋とおもっていた。(一種の失恋ではあるとおもうが)。
そんなとき、フォークソングを聞くと、少し心が和んだのである。
「友よ」もそのうちの一つであった。
つまり、当時の反体制闘争、学生運動の底には、そういう気分が流れていたのではないか。
負けるとわかっているけど闘っている。
いまさらながら、岡林信康をとおして、私はそう理解している。
闘っても、圧倒的勝利が得られるわけではない。革命勝利と叫んだところで、学生(および連帯した勤労者)たちによって現政権を倒し、自分たちの新たな政権を樹立し、みんなを幸せにする新しい政治を始められるわけではない。そんなことはみんなわかっている。それでも何かしないといられない、という気分でみんな動いていたのだろう。あらためて、その呼吸が感じられる気がする。
ただの若さによる暴発とも言えるし、ひたすらまじめだっただけと見ることもできる。
何でもいいからやらなきゃ、という気分であったり、無理だろうけどとりあえず、という心持ちの人たちも多く参加していたはずである。
負けるとわかっていても、それでも闘う。
たしかにそこには岡林信康が似合う。(当時人気だった東映ヤクザ映画の心情ともシンクロする)
当人たちはべつだん楽しそうではなかったが、その集団の存在じたいにはどこか祝祭感があった。私たち下の連中が入れてもらえないという空気もふくめて、羨ましかった。
岡林信康は、とつぜん、消えた。遁走である。
人気絶頂だったころ「フォークの神様」と呼ばれていた1969年の9月、岐阜でのライブのあと、突然失踪した。「ちょっと下痢を治してきます」と言い残して消えた。(『日本フォーク私的大全』)
およそ半年消え、1970年の3月に復帰する。
復帰後はしばらく活動するが、おそらく彼のなかにある何かは去らなかったのだろう。1971年にはこんどは隠遁してしまう。田舎のほうで農業生活に入った。私が積極的にフォークソングを聞き出したときには、すでに岡林信康は農業の人であり、隠遁者であった。
岡林信康の「フォークソングの神様」としての活動期間はきわめて短い。
だから私は「輝くような岡林信康」と一瞬も交錯することがなかったのだ。残念だがしかたがない。岡林信康の歌をしっかりと聞いたのは、東京に出て一人暮らしを始めた1978年、ラジオから流れてきた「チューリップのアップリケ」であった。東京言葉に囲まれて暮らしているときに、故郷の京都言葉(に聞こえる)で歌われる切々とした「チューリップのアップリケ」を聞いて、はげしく胸を突かれた。もうフォークソングの時代ではなくなっていた。
岡林信康がなぜ遁走したのか。
彼は何から逃げたのか。
おそらく、闘争側の歌手だと信じ込まれ、「フォークの神様」と称されることが苦しくなったのだろう。それは誤解だ、おれの一部でしかない、と言ったところで聞いてもらえる状況ではなかった。1969年から1970年というのはそういう時代だったのだ。
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