「な──え? 何が……」混乱が駆け抜けて、起き上がるのもままならなかった。乱れる思考の中で、ただひとつどうにも気になる言葉があった。「……依頼人?」
「改めて自己紹介をしますね。私はユキ。苗字は秘密です。でも、あなたの昔の想い人だった『工藤』ではないことだけは確かです。工藤美佐子さん、ここで二十年前、あなたに置き去りにされた女性と血の繫がりはないわ」
静かな目で語るユキの声は落ち着いていて、若い娘特有の弾むような調子は消えていた。
腰に片手をあてがい、こころもち体を傾けている。十九歳の小娘ではなく、もう少し年数をかけて磨かれた大人の女性に見えた。
「私は、諦めきれない恋や忘れられない愛の後始末を手助けする仕事をしています。つまりは恋愛専門の便利屋ね」喉を震わせて笑った。こんなときだというのに、鳥肌がたつほど艶めいた声だった。「今回は工藤さんの依頼であなたのところに来たんです」
「い、依頼?」聞いた言葉のすべてが、脳を滑り落ちていった。「……君は──美佐子の娘なんだろう?」
「いいえ」腕をおろして、ユキは首を振った。「美佐子さんには子供はいません。あなたと死のうとしたときも、お腹に子供はいなかった。その後も、生まれなかった。彼女はずっと一人です。今も」
「今?……美佐子は」
「生きています」その言葉に純也は思わず笑顔になりかけたが、「もうすぐ亡くなります。たぶん、来月くらいに」
その言葉は、ここまでのどの言葉よりも純也を打ちのめした。
一人で? ずっと? 今も?
そしてもうすぐ、死ぬ。
ユキはうっすらと微笑んだ。
「美佐子さんはあなたのことを気にしていました。二十年前、この場所であなたが去ったあと、彼女は夜がくるまで泣きはらしました。でもそれは、あなたに裏切られたことが悲しかったのとは違うと言っていました。最初はなんてことをしてしまったんだろうと──あんなふうに怒鳴れば、去っていくのはあたりまえだろうと。そしてすぐに、ああそうか、と思ったんだそうです。あなたは生き続ける。私は愛した人を死なせなくて済んだんだって」
純也は口を動かした。言葉はおろか、声さえも出なかった。
ユキは続けた。
「それからは誰も愛さないように生きてきたそうです。美佐子さんにとっては、あなたがくれた思い出だけで充分だったから。あれほど深く愛したり愛されたりすることはもうないだろうし、もうなくていいのだと言っていました。そしていよいよ最期が近くなったとき、ふと思ったんだそうです。あなたはまだ、私のことを覚えているだろうかと」
「え、い、いや、覚えて──」
覚えていた、と言いかけた唇を、不意に目の前に屈んだユキの指が塞いだ。純也は呼吸を止めた。
「違うんです。彼女が聞きたかったのは、いえ、願ったのは」指が離れた。純也は深く息を吐いた。「さっきのあなたの言葉なの」
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