「あのときは……ぼくは……」
「青酸カリの瓶を持っていたんですよね。母が当時の勤め先から盗んだものです」由姫はスカートのポケットに手を滑り込ませた。純也の携帯電話が入っているのとは反対側のポケットだ。「こんな瓶でしたか?」
取り出したのは、指先でつまめるほどの大きさのガラスの小瓶だった。
白い粒が瓶の底に溜まっている。純也は掠れた悲鳴を上げて後ずさった。
「あなたたちは、二人の旅立ちにふさわしい場所を探していた。母はこの桜を見たとき、まさにこここそが、と思ったのでしょう。瓶に手をかけました。でも、あなたが言ったんです」
「やめよう!」
純也は叫んだ。あのときと同じ口調だった。
けれど言葉にこめた思いは、あのときとは違っていた。
由姫を見上げた。濃い色を纏い始めた日差しが、彼女の顔を照らしていた。若さに張りつめた頰。二十年前ここで向かい合った女とは違う。
ロープウェイのゴンドラの影が傍らの地面を通り過ぎていった。それが通り過ぎるのを待って、由姫は唇を開いた。
「ええ。そう言ったんですよね。……いちどは一緒に死のうとまで言っておきながら、あなたは一人で逃げた。母をここに置いて。そうされた母がどんな気持ちだったかあなたに想像できますか?」
「由姫……」純也は唾を飲もうとした。口の中は渇いて、唾など一滴も出なかった。それでもそっと口を閉じ、こちらを見下ろす冷え切った目を見上げた。「君はそれで、その毒で、……何をするつもりなんだ」
日差しを受ける由姫の頰がかすかに歪んだ。自然な動きとはいえない素早さで、二度、瞼が上下した。
そのわずかな表情の変化を純也は見逃さなかった。よろめきながら、立ち上がる。
「君がぼくのところに来たのは、今のぼくの状況を知っているからだね」
由姫は答えなかった。だが、静かに瓶を持っている腕を下ろした。
その仕草だけで純也にはわかった。それが彼女なりの肯定であることを。
一瞬だけ、純也は足元に目を落とした。薄紅の雫が疎らにこぼれている。彼女が今の純也の現実を知っているということに心を抉られる感じがした。
由姫の母親との一件のあと、何年か経ってから、純也は結婚した。
もちろん由姫の母親とは何の関係もない女だった。ひとつだけ年上で、ある事情から、純也は婿養子に入った。年上の女房は金のわらじを履いてでも探せといいますもの、と純也の過去についてよく知っているはずの純也の母親は、相手方の両親に愛想よく笑いかけていた。
純也が結婚した女の父は実業家で、事業そのものよりも稼いだ金を元手に買い求めた土地を使うことで儲けていた。駐車場はもちろん、マンションやビルを都内の一等地に持っており、不況下でも値崩れしなかった。純也はそんな家の娘と結婚したのだが、その女には姉がいた。姉は奔放な性格で、男と駆け落ちをし、勘当された状態にあった。純也は義理の父の仕事を手伝い、忙しくも充実した暮らしを営んできた。子供も男の子が一人生まれた。その子が私立中学に進学し、生活が落ち着き始めた今年、義理の父親が癌で倒れた。
問題が起きたのはそのあとだった。
若い頃に出奔した義姉が、数年前から義父とだけ連絡を取っていたのだ。
彼女は父親の余命が短いとわかると、純也の息子よりも大きな男の子を二人連れて戻ってきた。そして病室ではしおらしい態度を取りつつ、いざ妹と義弟と向き合うと、さっそく遺産分割の交渉に入ろうとした。
うちには二人子供がいる。あなたたちは家やら生活費やらを今まで面倒見てもらってきたが、あたしは男に逃げられて以来、一人で子供たちを育ててきた。より多くもらう権利がある。
そんな主張を純也たちが受け入れられるはずがない。
義父も憤慨してふたたびこの厄介な娘を追い出すだろうと思われた。だがそこで、誤算が生じた。意外にもこの義父が、戻ってきた長女に情をかけているとわかったのである。
冗談ではない。
純也はこれまで、義父の仕事を継ぐために頑張ってきた。妻も、老いた両親の面倒をよく見ていた。義母は四年前に他界したが、脳梗塞で半身不随だった母親を世話していたのは純也の妻だ。そして息子は私立中学に通っている。海外留学の夢も語り始めた。土地はあるといっても、これを半分に分け、さらに相続税を払うことを考えると、突然現れた義姉に渡したいはずがない。
義父は今純也たちと長女とを天秤にかけている。近々、弁護士を呼ぶつもりだと話していた。
そんなときに、由姫が現れたのだ。
「君はぼくを脅迫するつもりなのか。それとも、ぼくの家庭を壊すつもりなのか。君のお母さんがそうしろと言ったのか?」
目の前の娘の顔をもういちど観察する。そこに遠い昔に愛した女の面影を探そうとした。だが純也は、彼女の顔をほとんど覚えていない。写真も一枚も残っていないからだ。