南部坂を登りきると正面に広がる公園は、配水場でもある。
函館の市街地に水を供給する施設だが、開設は明治時代であり、今は開放されて市民の憩いの場になっている。
由姫に連れられて公園に足を踏み入れた純也は、記憶の深い場所が沸騰するのを感じた。
ここはどうだろう。公園の中は芝生で覆われ、噴水が設置され、ソメイヨシノが数本植えられている。二十年前と変わったろうか。それとも、当時のままだろうか。だが記憶の底で跳ねる熱い飛沫は、坂道を延々と登ったことしか映さない。踏みしめた地面の感触。近づいてくる空。花の香り。そして公園の奥の階段を登るにつれて人影はなくなった。街から遠ざかれば遠ざかるほど、純也と彼女は二人きりになっていった。
由姫は南部坂を登っていたときとおなじように、先に立って公園の奥の遊歩道を進んで行った。だがさっきよりも、いくらか登る速度は遅い。
頭上には二本の黒い線が伸びていた。ロープウェイの索条だ。ゴンドラは見えない。平日の昼間なので運行の間隔が長いのかもしれない。これは二十年前にもあった。滑るように空を行くロープウェイの箱を覚えている。あのときは、一台のゴンドラが山麓駅に向かって下りて行った。純也はそれに誘われるように、………。
「君」いったん息を吐いて、はっきりと言った。「頼みがある」
「なんですか?」弾むような声色だが、聞きませんよと言外に申し渡していた。
それでも純也は言った。
「振り返ってもらえないか。今だけでいい。足を止めて」
由姫は一瞬、考えたのかもしれない。
歩みを止める前に、坂になっている遊歩道の砂利を靴底で鳴らした。
それから、彼女は振り向いた。最初に二歩下にいる純也を見、ふと目を奪われたように、そのうしろを見た。
由姫の目が、明るさや楽しさではない色に覆い尽くされた。
ゆっくりと胸が膨らみ、静かに萎んでいく。
「きれいだろう?」
言いながら純也も首を曲げた。眼下には公園の緑と、函館の街、そして海の澄んだ青が広がっていた。
この景色は覚えている。
もう少し緑が茂っていた気がするが、それでも色と形の配置はおなじだ。
「……そうですね」淡い吐息が混じった。
その音を聞きながら、純也は口を開いた。
「あのときもぼくはこうして振り返った。君のお母さんにも振り返るように言った。だけど、うしろを見たくないと言われたんだ。そのとき、ぼくは……」
「行きましょう」由姫はふたたび前を向いた。
手に力がこもる。引っ張られた拍子に爪先が小石に引っかかった。
つんのめりそうになりながら、純也は急いで言った。
「待ってくれ。聞いてもらいたいんだ」
「嫌です」
「いや、聞いてもらわなきゃならない。ぼくはここに来るまで、この道を登るまでは本当に……そうするつもりだった」具体的な言葉はどうしても口にできなかった。「だけど、ここを登るとき、坂道が続いて息も切れていた。今ほどではないが、心臓が痛くて、その痛みが」生きている実感を生んだ。純也は心の中だけでそう呟いた。舌にはのせなかった。それでも、続けた。「振り返って見たとき、不思議な気分になった。あとに残してきたものが、実は手放してはいけないものなんじゃないかと思った、いや、気付いた。だって今、君も見ただろう。街と海は、とてもきれいだ。人が生きている場所は、際限なく美しい。ぼくはそれを彼女に言おうとして、でも言い出せなかった。今の君とおなじように、彼女は」
ただひたすら山裾を登って行ったから。
そう繫げようとした言葉は喉の奥で消えた。
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